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食学の原理
-人類の食事に関する基本法則についての展観-

 劉 廣偉(中国人民大学 食政問題研究センター、北京 100872

要旨:食学とは食事学の略称であり、客観的原理として展観する主要な内容は、食物の獲得・摂取者の健康・食事の秩序、の三領域である。食物獲得領域における客観的原理については、主として農学・食品科学によってすでに提示されている。本研究では、食の健康と食事秩序における客観的原理を挙げることに焦点を当てることとする。食の健康においては「食から筋肉へ」という原則、「人のための食」という原則、さらには「食が不調をもたらす可能性」という原則、さらには「食が病を治す」原則、「五感を刺激する審美的」な原則が客観的原則として存在している。食事秩序領域における客観的原理には、「食が文明を宿す」原則、「食品のトライアングル(三角形)」原則、「食事ファースト」原則、「食の二つのサイクル」原則、「食は秩序の基盤」という原則が存在している。この他に、これらの原理から生じた6つの補題(補助的定理)が存在している。この十大原則は食学知識体系の中核的内容であり、人類がすでに提示している客観的原理において重要な地位を占め、人類文明の基本的原則を構築している。数学・物理学・科学・経済学などの原理と比較してみると、食学原理には通俗性・実用性・生存性という三大特徴を具えている。摂食者の健康領域における食学原理は、私たちの身近に存在しているために、誰もがそれを認識し、把握し、利用することが可能であるし、80億人の健康長寿を向上させることが可能である。食事秩序領域における食学原理は、社会を治める重要なツールであるがゆえに、社会的衝突を減少させ、過剰な競争を減少させ、社会全体の運用効率を高め、人類の持続的発展を維持していくことが可能である。
キーワード:食学原理;規律;食事;摂食者;食行為;食学
分類番号:S-O  文献コード:A 文章コード:1671‐861X(2023)02-0001-12

 原理とは規律における基本的法則規律・本質的規律であり、客観的規律から原理を発見することは、人類が客観的世界を認知した昇華であり、飛躍でもあった。この分科には客観的原則による知識体系が提示され「科学」と呼ばれた。ここ200年来、様々な分野が様々な角度から様々な客観的原理を導き、科目細分化による認知は客観的世界の歩みを大幅に加速させた。
  食学が提示した客観的原理とは、主として食物獲得・食の健康・食事秩序の三領域に集中している。食物獲得領域の客観的原理とは、主として農学・食品科学により提示されてきた。本研究では摂食者の健康・食事秩序領域の十大原理について重点的に述べる。食事は食べる行為を包括し、食学原理は食の学問原則を包括する。食学原理とはすなわち食事の原則であり、食べる原則とはすなわち食事原理のことである。食学原理は食学科体系の重要な内容であり、人類の食事問題や難題を解決する有効なツールである。それは最も直接的であり、最も生々しく、最も通俗的な方法であり、いかなる地球人にも恩恵を与えるものである。

1.人類はいかに客観的原則を明らかにしたか
  客観的規律を発見したのは客観的世界を認知し始めてからであり、客観的世界の認知は主体の客体に対する反映である。これは実践から認識に至り、また実践から認識に至るという絶え間ない反復過程にあった。人類が客観世界を認識したのは、まず五官を通した感覚であり、それが重なり概念が出現し、言語概念から文字概念へと至っただろう。概念があれば相互交流が可能となり、交流がまた概念の増加を促進し、より多くの概念が理性的な認知を生じさせ、理性的認知が重なれば知識層を形成し、その知識層が増えれば客観的規律を生み、規律が増せば原則を発見しただろう。食学原則の発見もこれに該当しているのである。

(一)基本的概念の確認
  食学原則を述べるには、その対象・認知・法則・原則などの基本的哲学概念に言及する必要があり、さらには食物・摂食者・食事・食学・食行為・摂食学などが食学基本概念とも不可分であることから、これら概念の内包的意味・外延ともに明確化すること、これにより我々が食学原則を議論・提示する前提が揃うのである。
  対象とは、哲学的なものでは主体以外の客観的事象を指し、それはすなわち主体認識と実践対象である(『現代漢語詞典(第7版)』)。哲学的には「主体」とは対照的に、人間の実践活動と認知活動という一対の基本的カテゴリーを構成するものである(『辞海(第7版)』)。「対象」という概念の内容と範囲を理解するために、二つの側面からの把握が必要であろう;一つは対象と主体との関係、二つは相互が依存する関係である。認知過程において、対象は主体認知活動の対象となり、主体は認識活動の担い手となる;二つ目の対象と客観的関係にあるとは、論理的に「客観的」は属性概念に属し、文法的には形容詞となる。「客体」は実体概念に属し、文法的には名詞である。二者の概念と外延とは全く異質であり、完全に別関係であるといえる。
  認知とは、思考活動を通じて認識・理解するものである(『現代漢語詞典(第7版)』)。すなわち、人類が客観的事物を認識し、知識を身につける活動を指している。これは感覚・記憶・言語、思考や想像力などのプロセスが含まれる。認知心理学の観点からみれば、人の認知活動とは人が外部情報を積極的に取り込み加工して獲得するプロセスのことである(『辞海(第7版)』)。認知と認識とは同一関係にあり、異なるアプリケーションシナリオ(応用場面)における別表現である。認知は反映されたものを強調し、認知はまた結果を強調する。認識とは対象に対する主体の反映であり、認知はさらに実践を通じて客観的事物を理解掌握すること、実践とは認知が正確か否かを検査する唯一の基準のことである。
  規律とは、事物間に内在する本質的な繋がりである(『現代漢語詞典(第7版))』)。さらに、事物の発展過程における本質的連携と必然的趨勢のことである(『辞海(第7版)』)。規律は事物間のつながりであり、この繋がりは絶え間なく何度も出現し、特定の条件下では頻繁に起きる作用であって、しかも物事の発展傾向を決定している。規律には、普遍性・重複性などの特徴があり、客観的であり、物事自体に内在しており、人間が規律を創造・変更・排除することはできない。しかし、それを理解し、それを人類へ運用するための利用は可能である。
  原則とは、通常は普遍的意味を持つ基本的規律を指す。規律は原則を包括し、原則は基礎的規律となり、規律の中でより一般的意義を具える規律となる。数量面では、規律は原則より多い。機能面からみると、原則はより一般的かつ主導的であり、実践と理論においては積極的な指導的作用を果たしている。規律と原則との関係は従属関係であり、原則は科学体系において中核的内容となる。別の学問においては、原則はまた公理・定理・定律などと呼ばれている。
  食物とは、食料に供されることのできる物質である(『現代漢語詞典』)。人類の食物はこれまで四大分類、即ち植物・動物・微生物・鉱物であった。ここ200年では「合成物」が人類の食物連鎖に入ってきて、第五類「合成食物」が増加している。食物には水・食糧・食品・野菜・果物・肉や卵・飲料・口服薬などの物質がある。人々は習慣的にしばしば飲と食とを分けて述べるが、実際には飲料も食物であり、水は基本的な食物なのである。日常生活において、人々は食物の欠充や疾病治療効能を区別していて、疾病を治療する効能がある食物を口服薬物と称している。
  摂食者については、『現代漢語詞典』には収録されていない。摂食者とは食事の主体であり、食事原則を研究するためにはこの概念を確立する必要がある。摂食者の定義は「食べることが視覚下の人及び人類に必要なことである」となり、全視覚下の人や人類ではなく、食べるという角度から認識した人・人類であり、食べることは個体の健康的生存・集団の調和・人口の持続性、すなわち人間の本質を理解する次元であり、食事問題を研究する核心である。摂食者の角度からみえる問題には、生存・健康・長寿がある。食業従事者とは食事を職業とする人であり、食物生産・加工・保管輸送から食品法・行政・教育などに従事する人であり、食業者自身も摂食者である。
  食事という言葉は『現代漢語詞典』には収録されておらず、古代漢語にも「食事」という用例が非常に少ない。食事の定義とは「人類の食物入手・食物利用の現象と活動」である。 食事には摂食者による食行為・飲行為・生存・健康、それだけにとどまらず食物の栽培・養殖・調理・発酵などの事業、さらには摂食者の食事・飲料・生存・健康などのほかにも、食事秩序の維持に関連する法的・経済的・行政・教育などの事項をも含んでいる。人類の発展歴史という長い河からみると、食事の歴史は550万年を優に超え、食事は諸事の前にあるだけでなく、文明の前にも存在しているのである。食事は人類生存の第一項目であったし、過去において我々は食事という範囲を狭く矮小的に見ていたが、それは食事と摂食行為との意味を混同していたからにほかならない。
  食学とは食事学の略称であるが、『現代漢語詞典』にはこの二語とも収録されていない。食学の定義とは「人類の食事を客観的規律的な知識体系として提示する」ことである。食学は人類の食事問題を解決する研究、人と食物間との関係及び規律的知識体系の研究、人類の食事行為の発生・発展及びその規律的知識体系に関する研究、人類の食事行為と食事問題との間にある因果関係を研究する知識体系研究、人類の正確な食事行為の継承・不適切な食事行為の是正・持続発展可能な知識体系の維持、これらについて研究している。 食学は伝統的習慣から飛び出して、すでに農業・食糧・食品・栄養という視野から問題を見るのではなく、より大きな概念を選択した―すなわち食事である。食事という視野から人類普遍に存在するすべての食に関連する問題について、部分的認知を全体的認知に置き替え、「盲人象に触れる」式をグローバルな洞察に置き替え、人類における食事問題を全面的に解決しようとしているのだ。
「喫事」すなわち食行為、これも『現代漢語詞典』には入っていない。喫事の定義は「人間が食物を摂取する行為と結果であり、食行為は食事内容の一部であり、この二者は帰属関係にある」とする。喫事は個体との間に三点の関係を有している;一点は生存関係であり、摂食行動がなければ生命維持ができない;二点は疾病関係であり、欠食・過食・偏食・厭食などは全て疾病の原因となる;三点は疾病治療関係であり、日常的食物・本草的食物・合成食物のいずれも疾病治療が可能である。人体の食物ニーズを十分に満たせば健康であり得るわけであり、人体の食物ニーズに背反していると病気を発生するだろう。健康的な食事をするために食品の量や質を保障するだけではまだ不十分で、正しい食べ方が必要となってくる。満腹することは食物量の問題、しっかりと食べることは食物品質や種類の問題、健康に食することは食べ方の問題である。というのも食べ方により病気を引き起こしたり、病気を治したりすることができるからだ。個々人の体の違いを尊重することは食べることの本質であって、胃腸や体の様々なニーズを満たすことが食べることの内容である。食事と医療とは相互関係にあり、その交差点が消化系の使用であり、経口治療が医事の重要な部分であるが、これはまた食事の重要な部分でもある。
  喫学、これも『現代漢語詞典』には収録されていない。喫学の定義は「(人間が)食物摂取した行動と結果全過程についての知識体系であり、喫学は食学の内容の一部」である。喫学は喫事(食べること)を研究対象とし、食物の利用効率を研究する知識体系である。またどのようにすれば満足できるか、また食物ごとの転化系統が合致しているのかを探る知識体系である。さらに食物と体とをどうすれば最も適合できるのかを研究する知識体系である。つまり、如何に食べることで健康長寿を創生できるのかを研究するものであり、どのように食べれば自己のためになるのかを研究するものである。喫学体系は食事方法学・美食学・食事治療学・食事療法などを包括する。食事方法学は人の食物転化系統要求を最大限に満足させることを研究する知識体系であり、喫事美学とも称される;喫病学は食物・食べ方と病因との関係を研究する知識体系であり、喫事(摂食)疾病学とも言われる;食事療法は食物と疾病回復間の関係・その規律を研究する知識体系であり、喫事(摂食/食事)療法とも称される。

(二)人類が明らかにした客観的原則
 人類が明らかにしてきた客観的原理の探究には長い歴史があり、客観的原理を明らかにする歩みは決して止まらず、それを明らかにするペースは大幅に加速している。理論上からみれば、明らかにされた客観的原理は主として科学システムに存在しているために「科学的原理」とも呼ばれる。科学とは学問により客観的原理を明らかにする知識システムであり、科学は人類が認知した客観的世界の優れた成果である。中国の『学科分類とコード』が明らかにしたところによれば、今のところ62の一級学科レベル・676の二級学科レベル、2382の三級学科レベルがあり、これらの科学システムの合計は、今日の客観的世界に対する人間の理解深度・幅を反映している。様々な科学が様々な視点から客観的世界を理解し、それぞれの視点からそれぞれの分野における客観的原理を見つけていくのだ。以下、食品科学の原則の精緻化をより良く理解するために、物理学・化学・数学・経済学などの他の分野における客観的原則を挙げ、より良く理解できるように食学原理を提示し述べていこう。
  物理学によって明らかにされた客観的原理は、主として物質の動的分野と物質の基本構造とに焦点を当てている。例を挙げると、ニュートンの第一法則(慣性の法則)は「全ての物体は、外的力を受けていないときには常に静止しているか、一様な直線運動の状態にある」とされ、力と運動との関係を巨視的なレベルで明らかにし、人々が力とその役割を正確に把握できるようにし、機械の製造を重視し、産業革命を促進し、近代化の急速な進展に繋がった。 化学により明らかにされた客観的原理は、主に物質組成・構造・特性および変化に焦点を当てている。例えば、電荷保存則は、「溶液中の陽イオンの総正電荷は陰イオンの負電荷の総量に等しい。すなわち、正味電荷数は、イオンが関与する化学反応の前後では変化しない」と述べられている。化学原理の適用は人間の日常生活と密接に関連しており、人間の生活の質向上に大きく貢献している。数学により明らかにされた客観的原理は、主として量的関係と空間形式の分野に焦点を当てている。例えば、ユークリッド幾何学的並列性公理による「線の外側の点により既知の線に平行な線を1本だけ持つ」 という数学的原理は、非常に抽象的・厳密・論理的であり、広く適用できる。経済学により明らかにされた客観的原則は、主に社会的製品の生産・交換・流通・消費、及びその他の分野に焦点を当てている。例えば、N・グレゴリーマンキューが提唱した経済学の10原則の一つは「人々はトレードオフに直面する」であり、この原則に対する典型的な解説は「フリーランチ(タダ飯)はない」である。経済学の原則は、社会開発の推進に積極的な役割を果たしている。
  以上に挙げた例に示されている、規律により明らかにされた科学的原則とは、規律システムをサポートする上で重要な部分である。異なる次元を観察し、異なる対象に焦点を当て、異なる方法で表現したとしても、それらには共通の特性を保持している。すなわち、彼らは客観的方法によってのみ、これらの問題を効果的に解決することができるのである。食学原則も同様にこの属性を持つ必要がある。

(三)人類が明らかにした食事の客観的原則
  現代科学は今日まで高度な発展をしてきているが、なぜ人類は哺乳類が持つべき寿命まで生きられないのだろうか? 脳の容量が大きく、知恵ある人類と称されているのに、なぜいまだに8億人が飢餓の中にいるのだろうか?20億人がなぜ食べることにより慢性病にかかっているのだろうか?なぜ数十億人が食品安全の脅威に晒されているのだろうか?なぜ食物資源の奪い合いによる社会衝突が不断に起こるのだろうか?食物連鎖の中の一つにある人類として、なぜ生態干渉が激化し、それにより自分自身の生存と長命とに脅威を来しているのだろうか?これらの問題が長く存在していること、これは全て我々がその中にある客観的原則を提示・利用してこなかったからである。食事原則を明らかにするとともに、食事原則を把握して、それを利用してこそこれらの問題を有効に解決することができ、これを基本としてこそ百年・千年続くことのできる調和の取れた世界食事秩序の構築が可能なのである。
  摂食者の健康領域である食学原則とは、「食を筋肉に変える」原則、「自分のために食べる」原則、「食が疾病となる」原則、「食が疾病を治療する」原則、「五感の審美」原則である。これらの原則には食物・食べ方と個体の生存・健康の本質関係とが提示されている。これらの原則はどこかで耳にしたような気がするのだが、我々はこれまで真剣にそれらの存在を考えたことはなかった。我々はこれらの珍しくもない観点について、食事の基本的規律という角度から見て、食学原理の高度な把握力を高め、我々のほうから自覚的にそれを運用すれば、我々全員の健康長寿を延ばすことが可能となろう。
  食事秩序領域における食学原則とは、「食が文明を孕む」原則・「食物トライアングル」原則・「食事ファースト」原則・「2つのサイクルとしての食物」原則・「秩序の基礎としての食物」原則がある。これらの原則は人類の社会行動の基本規律であり、食事と生態・文明・社会間の本質的関係を提示したが、これは人類が認知した客観的世界の重要な発見であり、人類の文明進歩・社会秩序・持続可能な発展などの問題解決のために理論的支柱を提供し、人類の文明社会における基礎を構成し、人類の社会秩序の基礎を形成するものである。仮にこれらの原則を遵守しないとすれば、社会は不安定となり、文明は持続困難に陥るだろう。
  食学原則は物理学・化学・数学・経済学などの学科原則とは異なり、3点の明確な特徴を持っている。一つは通俗性であり、食学原則は奥が深く分かりにくいということはなく、抽象的な形式ではなく、難渋な術語(専門語)もなく、一般の人が理解しやすいものである。食学原則は私たちの日常生活にあるが、「この山の中にあるのだが、本当の形を知らない」だけである。二つには実用性で、まず食学原則では個人の問題を解決することができる。食学原則は、食が病気を治療し、健康長寿を作る食べ方を作ることもできる;次に、食学原則は社会問題を解決することができる。食学原則は食事と文明との本質関係を提示し、食学原則を応用することで人類社会の融和発展を促進することができる;第三は生存性である。食学原則は全ての人の生存と健康だけではなく、人間集団の生存と発展にも関係している。食学原則に背くことは、個人の生存と集団の発展とを脅かすことになる。優れた食学原則を利用すれば、個体の生存質量を高めることができ、人口の持続発展を支えることができる。食学原則とは人類文明の発展過程における重要な科学的発見なのだ。

2.摂食者の健康領域における食学原則について
  摂食者とは食べるという観点からみた「人」のことで、食べることは食事の一部であり、人の食物摂取の行動と結果である。食べることは人間が生存し健康であるための基礎である。人は食べなければならないし、食べなければ命はない。食べることが人の生存を決定し、人生の生存質量を決定し、さらに人々の健康と寿命とを大きく左右する。食べることと人生の間には内在的客観規律があるのだろうか?その答えは「イエス」である。では、これらの規律はどこにあるのだろうか? 歴史や身近な経験が我々に教えてくれる;人はこの領域の探索に対して停止したことはないのだが、ただ高度な概括に欠けていただけだった。食べることは健康において両面性を持つ。つまり健康長寿を願って食べることもあれば、また食べることにより病気になったり、亡くなったりすることもある。人類の食事の歴史を考察すると、大体食事の客観的規律を遵守していれば、健康長寿となるはずであり、およそ食事の客観的規律に反していれば、体内の内部平衡を失って、筋肉が異常状態を呈し、疾病を誘発し生命の脅威に晒される。恐らく人の個体差異が複雑であるために、その中の一般規律を深く観察したり探索したりする人が少なかったのである。あるいはこうも言えるだろう、前人がすでに規律について述べているにもかかわらず、我々が重視しなかったために、日々見ていたはずのものが目に入らなかったのだ。健康とは人類永遠の追求点であり、摂食者健康領域における食学原則は、地球に住む80億人の健康と家庭の盛衰とに関連しているのである。食事の両面性を認識し、食事の客観原則を把握すれば、自己健康主導権が握れるだろう。
  食物と食事、そして食学と喫学とは属と種の関係であるため、次の5点の原理は摂食原則または食事原則と称することができる;無論、摂食学原理または食学原理と称することも可能である。それらは全ての人の健康と密接に関連し、一人一人の健康と長寿とを客観的に規範付けるものである。

(一)「食が体をつくる」原則
 「食が体をつくる」原則の内容とは、「人の体は食物から変換されたものであり、それは骨・血液・内臓・筋肉・脳・皮膚・毛髪などである」ということである。これは複雑な変換プロセスであり、非常に知的なシステムである。また、それは食物がなければ体が存在せず、食物がなければ生命は無いということでもある。「食が体をつくる」原則とは、食物と体との本質的関係を明示している。
  食物は人体組成の基礎であり、人間が存在する前提である。食物がなければ生命は無く、従って生命は食物と不可分なのだ。母親から誕生した時は、一般的に数キロの体重だが、成年後は数10キロ或いは100キロ以上にもなるが、このような現象はどこから由来しているのだろうか?実際には全てが食物から変換されたものである。たとえ母体で育まれたとしても、間接的に母親が摂取した食物から形をかえて摂取したのである。このことから、人体は食物転化によりできているという結論が導き出されるが、これはただ単に栄養学により問題が解決されるだけではなく、食物と人体間における物質形態転化という客観的規律である、と結論付けることができる。過去において我々は「飢えを満たす」ために食べると言い、空腹を解決する問題だとしていたが、このような認識では不十分である。実際、食事の本質とはまず「体をつくる」ことが第一義であって、とりわけ児童青少年の成長期においてであって、飢えを満たすのはその次なのだ。「食が体をつくる」原理は我々に、生命・生存という観点から改めて食事を再認識しなければならないと告げている。過去において我々は、食物と生命との関係を過小評価していたのだ。
  食物の体への転換には、遺伝学・酸素・体温その他要因の支持が必要で、これは非常に知的なシステムといえる。知恵という観点からみても大脳に劣らないことから、食の脳すなわち「食脳」と称せようが、食脳はただ単に消化系統のみならず、また腸脳・胃脳のみを限定するのではなく、その変換メカニズムに対して深く探知しなければならない、まさに21世紀において正視すべき課題である。食脳と頭脳との関連性からみると、「食脳に軍配が上がる」原則が引伸されよう、すなわち「食脳は体の生存性と健康とを決定し、頭脳は食脳のために働く過程において発展したものであり、食脳は頭脳を支配するが、頭脳は食脳を支配することはできない。二者は上下関係にあるが、ただ頭脳が食脳に従うことのみにより健康長寿の実現が可能なのである。これが逆転すれば健康・生存が脅威に晒されてしまう」ということである。
  食脳の出現は頭脳に先行し、食脳の誕生は環節動物の真体腔出現にまで遡ることが可能で、食物変換システム器官は5億年前のカンブリカ紀に遡ることも可能だ。頭脳誕生の痕跡は、約2億年前における哺乳動物の大脳皮質出現である。両者の差異は数億年のレベルで、頭脳は食脳の欲求が満たされていくプロセスの中で徐々に進化したものであり、食脳のために働いたのであり、人類の頭脳はこれによって一層発達したが、依然として食脳の下位にあり、食脳のために働くという地位に変化はなかった。食脳の存在とはすなわち頭脳の存在であるため、食脳が無くれば頭脳も無くなってしまう。逆にいえば、頭脳が活動を停止しても、人は依然として生きることができるのである。
  食物に直面した頭脳は誤作動を生じることがある。今までずっと、人々が食事をするのは自己の生理的欲求ではなく、多くは社会的欲求であった;例えば新年や節句を過ごすだとか、冠婚葬祭や、友人との交際等々である。このような際にはしばしば大宴会となり、しばしば食べきれずに、積もりつもって健康をそこなってしまうこともあった。我々はよく「空腹」だと口にするが、実際にはそれほど空腹なのではなく、「口がいやしい」空腹であり、「美味しそうだから食べてみる」たぐいで、胃腸からの欲求を精査せず、頭が誤導しているだけなのである。
  化学食品添加物という「魔法の達人」に直面すると、頭脳を司る五官はしばしば高度な魔法に騙されて人造合成食品を本物とみなしたり、粗悪な偽装食物を高品質だとみなして体内に入れたりして、食脳の操作メカニズムに反した結果、体の健康を害することとなるのである。
  「食が体をつくる」「食脳を君子(最も大切な存在)とする」原理の価値とは、今日の頭脳崇拝時代において非常に軽視されており、人々が食物と体との本質的関係を軽く扱い、食事の客観的規律に背いていると、最終的には体の健康を損なってしまう恐れが生じるだろう。

(二)「体と食との結合」原則
 「体と食との結合」原則の内容とは、「体と食物間との健康的な結合をいう。各人の身体は異なるし、しかも絶え間なく変化しているがゆえに、自分の体が要求するという特質に基づき最適な食べ方を各々が選択し、食物と体との最も理想的な結合をみつけること、こうしてこそ食べて健康になることが可能なのだ。この原則に背けば疾病を生じるだろうし、体の健康にとって脅威となる」ということである。「体と食との結合」原則は個体の健康と、食物・食事法における本質的関係を明らかにしてい
る。「体と食との結合」原理は、食物と個体の健康との結合性を明らかにしている。
現在世界には80億人がおり、それぞれが皆唯一の個人であり、しかもそれぞれが独特である。食学の角度から見れば、80億人が80億人ともに異なった食物転化システムを有しており、食物に対して80億の対応要求があるということである。これは決して総体平均値でもって解決することのできる問題ではないのだ。
  世界の80億人は一ヶ所の工場で生産される標準物ではない。理論的に言えば、80億人の需要に対しては80億の健康的な食事マッチングが必要であり、どの人も自分に適合する方法の入手を望んでいる。だが、大変残念なことに、他人に頼ったとしてもこの案を構成することはできない、なぜならば外ならぬあなた自身が自分の体におけるどんな微細な変化をも一番理解しているからだ。では、私たちはどのようにすればこの方法を設計することが可能なのだろうか?それは「七つの実践と二つのテスト」原則を守ること、即ち食事中に七つの実践を行ない、食後に二つのテストを行なうことである。食事中の七実践とは食事の過程において、数量・種類・温度・速度・頻度・順序・火の通り具合(通っていないか通っているか)など、この七方面が自分の身体に適合しているかどうか。食後の二つのテストとは、食事が終わった後に、排泄物や身体の変化を客観的に観察することを通じて、摂った食事が正確であったかどうかを点検するのである。これにより一回の食事が体内循環形成され、これを反復して体験することにより、徐々に自分と食物との連結規律が見出されるのである。
  健康長寿を目指して食べたいのであれば、誰かがこう言ったああ言ったとか、皆が食べるから自分も食べる、ということはもはやできない。また、「毎日6グラムの塩、8杯の水」などという、総体的平均値による指導などに頼ることはできない。例えば、成人の体内含水量は70%前後であるが、体重50㎏の人と75㎏の人とでは、含水量はそれぞれ35㎏と52.5㎏となって、両者の含水量差は17.5㎏である。仮に毎日8杯の水を補充すれば、不足する者も、超過する者も出るだろう。ここから理解できるように、集団平均値と個体の実際的要求値との間には一定の差異があり、この差異を縮めようとすれば、個体が必要とする傾向値を求める必要があろう。工業社会においては標準的であることを提唱し、標準をもって万物に対応することで、効率を倍増させている。標準を人に用いれば、誤差を生じるために、一つの標準のみでは80億人個々の需要には完全対応ができないのである。言い換えれば、食べることにより健康になるという事においては、統一された標準や、統一された量に頼ること、これが最適な選択であるとはいえない。体と食とが適合するようにすること、こうしてこそ健康長寿が実現するのである。
  人類が認知する客観的世界とは、「人に対して」と「物に対して」のスタイルが異なるということである。「人に対して」の認知体系は、個体の差異性を前提として、個体のアライメント値を追求するものである。このような知識体系は、一つを用いて標準的数値とすべきではなく、しばしば適宜・適量・少々などの概念を使用する。というのは、このようにしてこそ無数の各個体における客観的実物に接近することが可能となるのだ。食学における食事学もまた同様であり、このような「人」と「物」の認知パラダイムの差異もまた、東西文化が認知領域において差異があるということである。ここから分かることは、東方の伝統的認知体系の中に、優秀で価値のあるものが見受けられるということである。
  健康長寿のために食べたいのであれば、人の言うことに追従したり、人が食べているから自分も食べるということはできない。また「毎日塩を6グラム、水を8杯」などという集団平均値的指導だけに頼ることはできない。例えば、成人の水分含有量は70%前後であるが、体重50㎏の人と75㎏の人では、水分含有量が35㎏と52.5㎏であるため、この二人の水分含有差は17.5㎏となる、仮に毎日コップ8杯の水を補給すると、不足する人も過剰になる人もでてくる。ここから分かる通り、グループ平均値は個体の実際の要求値とは一定のギャップがあるもので、このギャップを埋めるためには、個々のアライメント値(個体実際要求値)を見つける必要がある。産業社会は基準を提唱し、すべてを標準化することで、効率を増している。この基準は人に対して誤差を生むために、一つの基準で80億個々人の要求を満足させることは不可能だ。換言すれば、健康的な食事に関しては、統一基準・統一量に頼ることは、最も望ましいことではない。その人のために食を作ることさえできれば、健康長寿が実現可能なのである。
  人類は客観世界を認識しているので、「対人」と「対物」のカテゴリーが異なり、「対人」の認知体系には、個体の差異性を前提とし、個体趨勢値を追求することが必要とされる。このような知識体系は、一つの基準でデータを表現することが不適当なので、しばしば適宜・適量・少々などの概念を用いがちである。というのはこのようにすれば無数の個体における客観的実数に近づけるからだ。食学における喫学もまた「斯(か)くの如(ごと)し」であり、このような「対人」や「対物」認知モデル差異は、東西文化の認知領域差異でもある。それゆえに、東洋の伝統的認知体系の優位と価値とを窺うことができるのだ。

(三)「食が病を生む」原則
 「食が病を生む」原則の内容とは、「食事は人類疾病の原因であり、不適切な食物・不適切な食事方法により疾病を引きおこしたり、体の健康を脅かす。正しく食べることにより疾病を予防することができる」ということである。「食が病を生む」原則とは、食べることと病気発生との本質的関係を明らかにしている。
  人類の疾病の原因は主として遺伝・環境・飲食・温度・運動・心の健康の6方面がある。そのうち遺伝と環境とは客観的要因、飲食・温度・運動・心の健康は主観的要因である。飲食はそのうちの重要な側面の一つであるが、食べることにより引き起こされる疾病を、摂食病といい、略称を喫病という。これは新概念であって、不適切な食物や食べ方により引き起こされる異常状態で、食物に問題があって惹起した疾病のみならず、食べ方の問題により起きた疾病をも含む。病因という角度から疾病名を付けることは、以前の病状により命名していたことと比較して、予防的積極的意味を具えている。それは病原を直接的に示すことが可能なので、患者が疾病に対して茫然とすることなく、治療を有利に進め、積極的な予防に役立つのだ。
  食事由来の疾病は主に欠食・過食・汚染食・偏食・アレルギー食源・食欲不振の6要因からきている。長期欠食は栄養不良を引き起こす;過剰摂食は多くの慢性病源となる;汚染食の摂取は健康不良の脅威となる;慢性的単一食物摂取は栄養失調につながる;慢性的食欲不振も栄養失調につながる:食物アレルギーは体質の問題だが、同様に健康不良の脅威となる。上述の6病源のうち、「過食」問題は比較的軽視されやすく、「過食は体を損なう」ことを「食が病を生む」ことの下部原理とする必要がある。なぜならば、世界に20億人近くいる過食問題者に対して、プラス効果をもたらすだろうから。
「過食が体を損なう」原理とは、「自分の体に必要な量以上の食物を長期的に摂取すると疾病を招く」ことを指している。過食問題が氾濫する大きな原因は「欠食行為の習慣」である。欠食行為の習慣形成は、積極的にエネルギーを蓄えるという本能に由来する。太古の時代、人類は食物の甘い果実や動物に火を通した後のまろやかな香りを発見し、ここからさらに安全で飢えを満たすよう、美味しいものへと変化させた。こうして徐々に甘く香り高いものを積極的に貯える、という飲食習性を形成していったのである。数百万年の進化の過程を経て、この修正はすでに遺伝子に記録された本能となったのだ。今日、食物が充足しているという環境において、人類が積極的にエネルギーを蓄えるという実情は、カロリー過剰をきたすのだが、継続的飢餓の放出場面が失われたために、体のメカニズムが乱れて病気を引き起こすのである。
健康管理について、人はみな「予防第一」原則を理解してはいるが、多くの人はどこから着手したらいいのかが分からない、常に把握しにくい・把握できない・把握しきれないと感じている。「食が病を生む」原理を理解して、6つの食事病因から把握しはじめれば、それらが予防第一の簡単なものだと理解できよう。「食が病を生む」原則の価値とは、疾病発生を予防することにある。

(四)「食が病を治す」原則
「食が病を治す」原則の内容とは、「食事は疾病を治療する重要な内容の一つであり、消化吸収システムを借用して体の失調状態に干渉すること、これは古くに発見されたものの利用である」ということだ。食事は食がもたらした疾病を治療できるだけでなく、さらにその他の病因がもたらした疾病をも治療できる」。「食が疾病を治療できる」原理とは、食事と治療との間に本質的な関係があることを示している。
  「食が疾病を治療できる」原理をはっきりと言うために、まず食物概念の内包と外延とを明確にしなければならない。『現代漢語詞典』では食物を「食用に供することのできる物質」としている。食物分類区分によれば、食事療法に利用するのは二つの方面である。一つは天然食物を用いた治療、二つは化学合成食物を用いた治療である。天然食物を用いるものには、更に一般食物治療と本草食物治療とに分けられる。
  通常、人は食物を一般的と治療的というように異なった効能として分け、治療効能を持つ食物を薬物(口服薬物)と称しているが、段々とその食物属性を忘れている。
  「食が疾病を治療できる」原理とは、「食物には疾病を治療する偏性がある」ことと「食と薬は同じ理である」という二点の原理が引申されている。「食物には疾病を治療する偏性があること」とは、「天然食物の偏性を利用して体の偏性を調節し、疾病を治療する目的を達成する」ということである。近代人は食物成分の認知に対して元素を重視した。実際には、顕微鏡が発明される前にも、平性・偏性の区別はあった。食物偏性は体の不正常状態に作用することが可能で、疾病予防と疾病治療という目的を達することができたのである。
「食物偏性による治療」には三方面がある:一つは体の平衡を調整し、病根進展を抑制すること;二つは「食病」を治療して、健康を恢復すること;三つはその他の原因で引き起こされた疾病を治療し、健康を回復することができることである。食物偏性に対する認知と利用は、人類が長い年月にわたって蓄積した知恵であるが、今に至るまで学界による十分な重視が喚起されていない。天然食物治療によって疾病を治すことは副作用が少なく、コストが低いのだ。食物偏性について早く認識し、早く利用すれば、それだけ早く恩恵が受けられるのである。
  偏性食物を利用して疾病を治療することは人類の普遍的行為であり、化学合成食物(口服薬)出現の前においては、世界各地の人々が疾病と戦う過程で、様々なレベルにより食物偏性の作用を認識・掌握し、そしてこれでもって疾病を治療していたのだ。この領域において中国人は非常に豊富な経験を累積し、食物がもつ性質と疾病との間にある客観的規律を明示し、比較的整った知識体系と科学三要素とを形成してきた。この知識体系は、中華民族の発展と継続とのために巨大な貢献をし、また人類の健康のために積極的な作用を起こしてきたのである。
  「食薬同理」の原則は「食薬同源」認知に対する昇華である。「薬食同源」は薬物と食物との来現が同一であることを強調している。実際には、食物と口服薬物との間にはもう一つの本質関係があるのだが軽視されていて、これこそが「食薬同理」なのである。「食が疾(やまい)を治すことができる」が引申された原理であり、「食薬同理」とは「食物と口服薬物とはいずれも口に入れること、そして胃腸を通過して体の生存と健康に作用すること、体は決して単独器官ではなくその区分に対して個別処理すること、二者の運行体制は本質的に同じである」という事である。原理から言えば、二者はいずれも食物転化システムと健康に生存することとの関係を利用して作用を発揮しているのだ。この理屈から明らかなように、食物を食べることにより薬物を減らせらるだろう。
  「食は疾病を治療できる」という原則および「偏性食物は疾病を治療する」「食薬同理」の原則は我々へ次のように告げている、それはすなわち全ての食物摂取と体の健康との間にある普遍的規律、及びすでに発見された疾病予兆は、まず食事を把握して疾病を治療するという基本順序があり、先に食物で飢えを充当し、それから本草食物、その後に合成食物というようにすること。医療レベルや病院施設の優劣については、医療効果を高くしてコストを低くするものであって、その他のものは必要ない、食事療法にはこういった特徴がある。

(五)「五感の審美」原則
  「五感の審美」原則の内容とは、「食は五感の審美、すなわち味覚・嗅覚・触覚・視覚・聴覚を通じて感知するもので、嗅覚・味覚・触覚(口腔)を主として、視覚・聴覚を従とする審美過程である。食事審美の反応とは二元的なもの、即ち心理反応と生理反応である。こうして美味と健康との統一を強調するものである」とする。「五感の審美」原則は食べることと審美との間にある本質関係を示している。
  絵画・彫刻は視覚の審美であり、音楽・歌曲は聴覚の審美、映画・劇は視覚と聴覚の統合審美である。ただ食のみが味覚・嗅覚・触覚・視覚・聴覚が共同参与する審美形式となっている。五感審美の本質とは3+2の関係であり、味覚・嗅覚・触覚は食の審美中核、視覚・聴覚は審美補助となっている。というのは、視覚を持たない視覚障碍者や聴覚を持たない聴覚障碍者であっても、美食を味わえるし、食の健康を享受できるからである。食の審美はまた食物美学と称されている。
  伝統的な美学理論では、視覚・聴覚の審美的効能を認識しているのみで、味覚・嗅覚・触覚はその中に入っていなかった。実際には、人類の審美は味覚にあり視覚にはないのである。「五感の審美」原理の提案は、客観的な法則を明らかにして、伝統的な美学理論の封じ込めを打破することにある。人類は外界からの情報を、五感を通じて知覚し、愉快あるいは嫌な体験を生み出すが、これは身分の上下に関係ない。食物の味・匂い・触覚・形や音は、同時に人々の五感に作用して感受していくが、これは他の審美形式には備わっておらず、全感覚による芸術なのである。
  実生活において、人々は一皿の料理に直面すると、それがまだ口に入る前においてその芸術性を賛美する場合、しばしば視覚効果について語られるが、これは視覚審美が芸術界を支配する慣性だからである。実際には、料理の視覚効果は絵画彫刻作品の視覚効果よりずっとギャップが大きいのだ。視覚審美をもって審美成果を食することは偏見や誤解を招くものであって、客観的規律にも違反している。
  食の審美学に精通している人は美食家すなわちグルメと呼ばれるが、美食家には創作と鑑賞の二つのカテゴリーがあり、5種類に分類することができる。製品を調理することに精通しているものは、調理美食家であり、調理芸術家とも称されている;発酵食品に堪能なものは発酵美食家として知られ、また発酵芸術家とも称されている;食品の鑑別に精通しているものは、伝統美食家とも称されている;食べ物の試食に堪能で健康的な食事ができるものは、健康美食家とも称されている;美食の創造と食の鑑賞の双方に通じており、さらに健康的な食事ができるものは大美食家とか美食大家とも称される。
  食学の観点からみると、鑑定(ティスティング)分野での美食家の最初のコードとは、非美食家よりも健康長寿であるということであり、仮にこの点が不足していたら、非美食家たちがいまだ健在であるにも拘わらず、美食家は早世してこの世にいないということで、その人はプロの「食いしん坊」だった、と言わざるを得ない。この「食いしん坊」は食糧欠乏時代では羨ましがられたものだが、食糧が充足している時においてはもはや時代遅れの落伍者である。現代社会は人々が健康に食べられるよう導くことができる、新しいグルメアイドルを必要としていて、それは「五感双元」(五感デュアル)に準拠した現代グルメである。
  「二感」から「五感」へ、「一要素」から「二重要素」へ、これは食事審美に対する客観規律の完結を示しており、伝統的美学理論の補完と改善とをなすものである。その最大の価値は美味と健康との統一であり、誰もが美食を享受すると同時により長く健康長寿生活を送ることである。

3.食事秩序領域における食学原則
 食事は人類社会を構築する基礎的活動であり、個人の生死のみならず、人類社会の盛衰をも決定し、人類社会が調和するのか対立するのか、持続していくのか停止してしまうのかを決定する。社会秩序という観点から観察してみて、人類の食事秩序には内在的規律があるのだろうか?答えは「イエス」だ。では、これらの規律とは何だろうか?人類の発展史を振り返ると、食事秩序の客観的規律を遵守する段階では、平和で繫栄した時代だった;およそ食事秩序の客観的な規律に背いた段階では、衝突・戦争が絶えない歴史時代だったのである。おそらく食事秩序が生存利益に対して危ぶまれると、人類は声を出したくなくなるのだろう。或いはこうとも言える、我々は前人に対する観察の欠乏によって帰納的結論を出してしまうのだ、と。
  食事秩序領域における食学原則とは、社会的平和と種族の盛衰とに連動している。この五原則は耳にするとそれほど奥深くなく理解しにくくもないが、実は人類文明の礎石なのだ。食事秩序は社会秩序の主体であり、仮に食事秩序の支持がなければ、一切の秩序がまるごと瓦解してしまうのだ。我々は80億人の食事秩序を保つことを可能とさせるために、食事問題を管理し、効果的に、均衡を取りつつ、100年1000年と維持させなければならない。人間が生まれるや食事問題で困ることがあってはならないし、彼らの子孫もまた食事問題で悩むようなことがあってはならない、と認識することだ。その時には、人類社会の衝突は大幅に減少し、人類文明は斬新な時代に足を踏み入れることだろう。

(一)「食が文明を育む」原則
 「食が文明を育む」原則の内容とは、「食は文明に先行し、食は文明を育む。食事は文明の基礎であり、食事は文明の持続を下支えし、不適切な食事行為は文明の持続を脅かす」ということである。「食が文明を育む」原則により食事と文明との本質的関係が明らかになった。
  食事は人の生存・健康に関係するだけでなく、人類文明の起源・発展とも関係している。しかし、この食事と文明との関係は軽視されてきた。人類文明の起源には二つの段階があり、それはすなわち文明要素段階と文明社会段階とである。文明要素はホモサピエンスが食物を獲得するための行為により形成された;文明社会の形成は食物馴化から生じた。文明は食事から発せられ、食事は人類の文明起源であるエネルギーとなる食物に由来している。
  文明の発端となった六要素は1‐550万年前に形成された。知恵・美・礼儀・権力・秩序・継承者はひとしく食物獲得の過程から生じたものだ。知恵は食事に由来する。人類の初期は、木から地面へ降りて歩いたが、体は虚弱で、多くの大型動物からの脅威に直面し、集団闘争・落とし穴・弓矢による抗争をするしかなく、それは人類の知恵の濫用だったといえる。食物獲得工具を制作・使用したことは、人類が知恵の鍵を開けたといえよう;美は食事に由来した。人類の始まりには美的感覚がなく、美的感覚は客観世界への好感から獲得してきたものである。人類の黎明期における美的感覚は、緑の木々や青い空といった視覚ではなく、植物果実の甘さや動物料理の豊潤な香りであり、これが味覚の源であった;礼儀は食事から生まれた。礼儀の核心は謙虚さであり、人類初めての謙虚はおそらく食物に対してであって、他のものではないだろう。そして食物に謙虚となることが人類の礼儀の始まりである。敬は礼儀の重要な部分であって、人を敬い、天を敬い、神を敬うことは、いずれも食物とは切り離せなかった;権力の源は食事にある。食物をコントロールする者が、すなわち尊敬と服従の対象となった、これが即ち権力である。例えば、鼎(かなえ;三足の青銅器)は中国においては本来炊事器具であったが、後になって権力の象徴へと変容したこと、これがこの理屈を裏付けている;一族の源は食事にあり、家族の増加は食物と切っても切り離せないし、一族の持続はまず食物が持続供給可能か否かにかかっていた。食物がなければ跡継ぎができず、子孫は絶えてしまうしかない。子孫のために食物や食物資源を備蓄するのは、継承における優先問題である。
  文明社会の形成は1万年前の食物馴化に拠っている。食物馴化は人を定住させ、食物を備蓄させ、社会に分業出現が起こり、社会階級が現われ、城郭・文字・青銅器などが出現して、食物馴化が人類文明社会の出発点となった。
  食事は人類文明の中核的内容であり、食物は生存を決定し、生命を決定し、一人一人の生存質量を決定し、社会秩序との調和・安定を決定した。今日の人類文明を表現する形式は豊富な色彩や意図的なものであって、時には文明が本来持つ意図からかけ離れているようにも感じる。食事は人類文明の主力であり、過去もそうであり、今日もやはりそうなのである。仮に食糧という支えがなければ、あらゆる形態の文明はズタズタになるだろう。今日の文明とは、人類全体の文明ではない。なぜならば地球上にはまだ8億人の飢餓に苦しむ人がいる、そうした中で食糧問題の全面的解決が、人類文明の全体に関わる主要なランドマーク(標識)となるだろう。
  食事問題は、人類文明に対する継続的かつ重大な脅威である。2015年9月25日、国連は「持続可能な開発目標サミット」をニューヨークで開催し、国連193名の構成員がサミット会議上で正式に持続可能な発展目標(SDGs)の支持を決議した。 持続可能発展目標の主旨は、総合的方式をもって社会・経済・環境の三つの角度による発展問題を徹底解決するために、これを持続発展の道へ向かわせることも含め、その主要目標を世界のどの片隅においたとしても、永遠に飢餓を消滅させることとした。この17目標中12が食事と関連しており、食事問題が持続発展の脅威となる重要な要素であることが理解できよう。2019年6月24日、大阪G20首脳サミットの世界食学論壇は「淡路島宣言」を発布し、食事四大共通認識のうち、最初の共通認識は「食事問題の有効的解決は人類の持続発展の前提である」であった。いかにして人類文明と未来に関わる食事問題とを全面的に解決していくのだろうか。

(二)「フードトライアングル(食事三角形)」原則
 「フードトライアングル」原則の内容とは、「人類の食事範囲、これは食物母体システム、食事行為システム、食物転化システムの三者間に存在し展開されてきたものである。食事行為システムは食物母体システムから食物を要求し、それを食物転化システムが使用するために提供する。そして、食物転化システムは食物排泄物や残骸を最終的に分解して食物母体システムへ戻すのである。このように構成されたトライアングル関係は人類の食物境界を反映しており(図1)、一つが欠けても食事の全体像ではなくなってしまう」ということである。また、「フードトライアングル」の原則とは、人類の食事と自然との間に存在する本質的関係を明らかにしている。

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(図1 フードトライアングル)

 「フードトライアングル」は、人類の食事活動境界を説明し、人類の食事全体を確立して、過去の食事に対する部分的認識・局部的認知だった不正確な状況から抜け出して、全面的に食事問題を認知するための理論的裏付けを提供した。
  食物母体システムは自然発生的なもので、およそ6500万年前に形成された。それは食物の供給源システムで、食物の生態系であり、全人類が共有する「ビッグシステム」である。食事行為システムは社会的なものであり、それは少から多へ、小から大へと繋がる「重層的システム」である。個人の食事行為から、家庭の食事行為システムへ、一部族の食事行為システムへ、一国家の食事行為システムへと、更には世界全体の食事行為となっていく。これは多層をなすN個システムである。食物転化システムは自然的であり、個人には一つの食物転化システムがあって、どの食物転化システムも全てが異なり、今日世界にいる80億人には、80億の食物転化システムを有している、それが「微系統(マイクロシステム)」なのである。
  上述により理解できるように、80億の食物転化システムは、食事行為を通じて食物母体システムを共有している。我々の個人・家庭・地域・国家の利益は異なるものの、食物母体システム下では同じなのだ。我々の家族・地域・国・種族の文化は異なれども、食物母体システム下のニーズは共通している。人類が「食物母体システム」を共有すること、これは「人類運命共同体」理論の物質的礎石であるといえよう。
  フードトライアングル原則とは、自然界において人類が食物を入手し、それを利用する基本的な足取りを明らかにして、食物の全面的理解及び食事問題の全面的解決策のために、理論的支援を提供するものである。

(三)「食事ファースト」原則
 「食事ファースト」原則の内容とは、「食事は長く続く、他事は後から。食事は生存に直結し、生存問題が優先されるので、生活面はその次に。食事を優先すれば、国民は安泰である。もし他事を優先すれば、必ずや混乱が起きる」ということである。「食事ファースト」原則は食事と他事との間に存在する本質的関係を提示している。
  諸事に直面するにしても、食事は第一にしなければならないことであって、他事は二の次となる。食事は人類生存にとって第一の大事であり、むろん優先されなければならない。仮に他事を優先すれば、必ずや人類の生存や持続の脅威となるだろう。ここで言う他事とは衣服・家屋・交通・医薬・通信・金融・飛行・戦争などを指す。人類の発展史という長い河からみても、食事は諸事に優先され、文明の前においてもそうであった。文明は食事の中からやって来る、諸事は食事の中からやって来る。食事はずっと昔から、文明は後からやって来た。食事が先で、諸事はその後。これはずっと存在していた客観的事実であり、変えることはできない。これはずっと存在していた客観的規律であるので、改変は受け入れられない。
  工業社会における科学技術の急速な発展は、人類の様々な欲望を満たし、他事が絶え間なく増えてきた。商業競争の原則においては、多くの火急な用事が食事よりも切迫しているようだ。このような社会の運用メカニズムにおいては、人々はしばしば無意識のうちに「他事を優先する」決断を下し、食事を後回しにしているが、これは非常に危険なことである。「他事を優先する」ことは、当面の問題は解決するものの、将来的には問題がさらに複雑化するだろう。長期的総体的にみれば、このような「他事を優先する」行為とは、社会全体の運用効率を低下させるのみならず、個人の健康と人口の持続への脅威にもなるに違いない。「食事ファースト」の原則は人類の社会活動における基本法則を要約したものであり、人類社会において重要な客観的規律の一つである。この原則は人類の行動における重要事項判断を総括し、人類社会が持続可能な発展をするための客観的法則を示したものである。
  さらに、「食事ファースト」原則にはまだ若干のレンマ(補題・中立的言語)を拡張することが可能だ。例えば「食は医事の前に」という原則であるが、その内容とは「食事は健康管理の上流で、医事は健康管理の下流である。上流管理を把握していれば半分の労力で効果は2倍、下流管理の把握であれば2倍の労力で効果は半分である。医事管理においても食事とは不可分である」というものである。このレンマは、食事と医事間との本質的関係を示している。食事と医事との関係を明らかにすることが、健康管理の主導権を把握する鍵である。食事は主導的健康管理で、医事は受動的健康管理である。主導的健康管理は低コスト・高効率、受動的健康管理は高コスト・低効率なのだ。だが、現実は非常に残念なことになっていて、人々が健康に言及する場合には、まず医事を思いつくか、或いは医事だけを考え、あたかも健康管理といえば医事のみにあるとみなされている。実際は、人は生まれてから死ぬまで食事と不可分なのであるが、健康な人は医事を必要とせず、病気になってから医事を必要とする。しかも、食事にも病気治癒効果があって、健康管理において食事の比重は医事よりもずっと大きいのである。

(四)「2つのサイクルとしての食」原則
 「2つのサイクルとしての食」原則の内容とは、「人類の食事行為は、必ず食物変換システムの運用ルールに従わなければならず、そうして初めて健康長寿が可能なのであり、食物母体システムの運行ルールを守ることにより、持続発展が可能となる。人類の食事行為は恣意的であってはならず、不適切な食事行為をすぐさま矯正すること、これによりもっと良く生き、もっと持続発展が可能となる」ということである。「2つのサイクルとしての食」原則とは、人類の食事行為と自然のメカニズムとの間にある本質的関係を明らかにしたものである。
  歴史的にみると、宇宙生態システムの形成がおよそ5.4億年前だとされ、その間に5度も種の絶滅を経験した。今日の食システムはおよそ6500万年前に形成され、人類の食物システムの形成は2500万年前、ホモサピエンスの食がシステム形成されたのがおよそ550年万年前である。また次のようにも言えよう、この3系統の形成時期の時間差は大きいし、人類の食がシステムとして形成された時間は食母システム・食化システムより10倍以上も遅れてきたのである。人類の今日の食事行為はこの2つの千万年を単位とする運行規制を飛び越えてはいない。ゆえに、人類が行なう食事行為がこの2方面からやって来たものを受け入れ、食化システムの客観規律を遵守する合意をしたうえで、人類個体の健康長寿を維持し高めるようになったということ;さらに食母システムの客観的規律を遵守し、維持することにより、人類の持続を延長しようという、勝手な妄想をすることはできないのだ。
  人類は生物連鎖の頂点にいるので、仮に食母体系が破壊されたとしても、一つまた一つと申し伝え、そこから蓄積していけば、人類そのものに危害は及ばないだろう。食物転化システムとは各人の生命システムである。仮に食物転化システムの運行制度に背いたとしたら、人の生命質量は深刻なダメージを受け、終結に至るかもしれず、そのような事になったら健康長寿は実現不可能になってしまう。人類の食事行為は、必ずこの二つの運行規制を遵守しなければならないし、この二つの運行規制に挑戦することはできず、それに適応し、それに従うことにより健康と種の持続が保たれるのである。
  ここ300年来、人類がおこなった多くの行為は、食物母体システムに巨大な圧力をもたらし、食物母体の運行規制に干渉すると同時に食物転化システムに多くの障害をもたらした。特に化学合成物が食物連鎖に侵入してからは、食物生産効率と食物官能効果を高めると同時に、食物生態と個体健康に大きな脅威をもたらしたが、これは「食の2サイクル」原則に挑戦する典型的な事件であった。
「食の2サイクル」原理は我々に警告している、今やっていることはしてはいけないことで、常に反省すべきことは我々の食事行為である。それゆえに、機を逃さずに不適当な食事行為を矯正すべきである、と。これだけで、個体の健康レベルを高めることができ、こうしてこそ種を維持し持続発展が可能となるのである。

(五)「食の秩序基本」原則
 「食の秩序基本」原則の内容とは、「人類の社会秩序は食物分配と食物資源独占とに起源がある。食事秩序とは生存秩序であり、食事秩序は早くに社会秩序となり、食事秩序が社会秩序の基礎となった。食事秩序がなければ、その他の秩序はその瞬間に崩壊し、文明もまた瓦解してしまうだろう」ということである。「食は即ち順序の基である」という原則は、食事と社会秩序間との本質的関係を示している。
  食事秩序とは食事システムの条理性・連続性・効率性の体現であり、食事秩序は人類秩序の最初の形式である、また全ての秩序の基礎でもあり、さらに人類の持続発展を可能にする前提でもあるのだ。国連の食糧及び農業組織(FAO)が発布した『2021年全世界食糧危機報告』によると、2020年においては世界で少なくとも1.55億人が深刻な食糧不安に直面しており、これは過去5年間で最高レベルだという。深刻な食糧不安とは、十分な食料を入手できないために、生命や生計が差し迫った危険に晒されていることを指している。紛争や新型コロナウイルス流行、異常気象などの要因の影響を受け、近年世界的規模での食糧安全問題が増加の一途をたどっている。ロシアとウクライナの紛争は、世界人口の五分の一以上に相当する17億人を貧困・飢餓に陥らせる可能性がある。 食物不足は社会衝突の重要な原因となり、食糧秩序の混乱は社会不安の重要な要因である。食事秩序の調和がなければ、社会秩序の調和はあり得ないのだ。
  「食物は秩序の基」という原則は、人類における社会秩序構築の基本法則を明らかにしている。食物の合理的分配と食糧資源の合理的所有がなければ、調和の取れた食事秩序はあり得ない。調和の取れた食事秩序がなければ、友好的な社会秩序もあり得ないため、食事秩序は社会秩序の核心的内容となっている。世界的観点においては、この関係は著しく過小評価されている。今日の世界に存在する紛争の多くは、食糧資源をめぐる競争ではないために、表面的には食事とは無関係にみえる。だが実際にそそのベールを剥いでみると、最底辺ではいまだに食物資源を奪い合っていることが容易に発見できよう。調和の取れた社会秩序の構築には、まずは食事秩序の構築から。80億人の食糧利益に対応することのできる新しい秩序を構築すること、これが21世紀の世界秩序進化の基礎となるのだ。

4.結論
 客観的原則が提示するところによれば、人類が認知する客観世界のプロセス中において非常に重要なものとは、客観的原則を提示することが科学体系を構築する必要三条件の核心である、ということだ。逆に言えば、知識体系を構築するには客観的原則の提示が必須であり、客観的原則の知識体系が掲示されなければ不完全な表現となる。客観的原則を提示し、その客観的原則を把握することは、人類の問題を解決する最上の方法である。人類が提示した客観的原則は数を増し、問題解決能力も強度を増してきている。仮に人類の行為が客観的原則に違反し、間違いがあったとすれば、さらに多くの問題と対峙しなければならず、ひいては滅亡へと向かってしまうかもしれない。人類が客観世界を認知してきた道程はすでに長かったのだが、まだ多くの認知緯度が開かれておらず、さらに無数の客観的原則がその発見を待っている。上述の十大食学原則は、新角度からの認知成果なのである。
  個体の生存と健康には食事が不可欠であり、その中の食事原則を提示し、食事原則を把握することにより、個体の生存質量を高めることが可能となる。「食を筋肉に変える」原則は、我々に食物が生死を決定することを教えてくれた。「人によって食べ方を変える」原則は、我々に体と食物との最も良い結合を教えてくれた。「食が病をもたらす」原則は、我々に食病予防について教えてくれた。「食が疾病を治療する」原則は、我々に食べることで病を治すことを告げてくれた。「五感の審美」原則は、我々に美味と健康とを統一すべきことを告げた。この五原則は、全て個体を取巻く食事から展開されたものであり、仮に、全面的にこの五原則を使えば、病気にかからず、またかかりにくく、食で以て病を治すことが可能になる。ここから人の健康長寿期を1-5年高めることが実現可能なのだ。仮に全世界の人々が皆この五原則を利用すれば、80億人の健康長寿期が1-5年高まることが可能となるだろう。と同時に、家庭における医療費を節約でき、国家の医療保険負担を軽減し、社会医薬資源を節約することも可能である。この5項目に渉る通俗平易な原理には、巨大な価値が含まれているのだ。
  食事は人類文明の運動エネルギーであって、人類文明は食事から切り離せない。昨日も今日も明日もそうだ。食物分配と食物資源占有とは社会秩序の基礎である。「食が文明を孕む」原則には、食事と文明との関係が提示されている、すなわち「食事のトライアングル」原則では食事の完全性を認知することが強調され、「食事ファースト」の原則では多事が先んじることの危険性を述べ、「食事の2つのサイクル」原理では我々に不適切な食事行為を適宜修正するよう警告し、「食の秩序」原則では食事秩序が全ての秩序の基礎であることを明確にした。この5点の原則は全て人類文明と秩序に関するものであり、我々がこの5原則を完全に適用できれば、食物分配・食物資源の公開化・学科化が実現し、世界の食事紛争を大幅に減らし、80億人の利益を守る世界食事秩序を構築することができる。そして、食事新秩序は社会秩序全体を反復推進させ、人類文明に新たな階段を設けさせる。これまで、食事原則と文明との関係は過小評価されていたのである。
  食学は食事を認知する知識体系として、食の客観的原則の発見をその使命としている。上述した食学十大原則は、食学科学体系の重要な内容であり、これらの原則は食学知識体系の需要を構築し、これらの原則により食事問題の需要解決が掌握されている。食学原則は物理学のような深奥さ、数学原理のような綿密さには及ばないものの、80億人の健康長寿と密接に関連しており、人類社会の持続可能な発展と密接に関連している。この点からみても、食学原則の社会的価値はその他の科学原則と比較しても、少しも遜色ない。
  人類は、食事という問題において四大共通認識を持っている。すなわち「誰もが食を必要とし、日々食を求め、食により長寿を求め、食はみな相続人(子孫)を求めている」ということだ。生存という角度からみると、どの人もみな更なる健康長寿を熱望している。人類の文明発展からみると、人類社会には衝突が頻発していて、多様性のある世界化への道のりには障碍が横たわっており、人類の持続可能な発展も脅威を受けているところだ。これらの問題に直面し、人類生存に必需であり、人類文明を構成するための基礎的な食事原則を提示し、人類の食物獲得問題・摂食者の健康問題・社会の秩序問題を解決するために、本稿では万全な理論ツールを提供した。それはすなわち、人類の食事原則、人類の食事共通認識への励起、人類の食事問題の解決、これらの提示である。
  21世紀に突入し、現代科学の分化と統合とが同時並行している。しかしながら、客観世界の認知はまだ脆弱である、というのも科と科との間にはまだ空白・盲点が存在している。それゆえに、分科が客観世界を認知することも、人類認知の局限的表現にとどまっていると言わざるを得ない。分科認知は人類が客観世界を認知する終着点ではないが、人類が客観世界を認知することは必然的過程である。人類は客観世界の認知に対してまだ多くの盲点があり、人類が認知する客観世界の道路にはいまだに凸凹がある状態なのだ。人類が客観原理を提示する能力には限りがあるものの、ずっと全面認知である客観世界に歩みを近づけている。客観世界はそこにあるのだが、人類がそれを分かっているか否か、それは客観世界自体とは関係のない事だが、人類だけがそれに関係があり、人類の生存と関係を持ち、人類生存の質量とも関係し、人類の持続可能な発展とも関係している。人類が提示する客観的原理とは何のためだろうか?それは人類がこの客観世界の中でより良い生活をずっと続けるためであって、人類滅亡を企んでいるのではない。この初心を忘れてはならないのだ。今日、人類内部に存在する無秩序な競争によって、多くの科学原則が悪用され、非理性的利用がなされ、科学技術制御の喪失は、すでに人類生存における重大な脅威となっている。
  食物が生命を決定し、その生命は至高無上なものである。食物は生命創造を支える全ての価値であり、食物の価値とは全ての価値の基本である。体の食物欲求に耳を傾けること、健康長寿な生命はまず食からである。
  食事は文明を育み、文明は四方へ光を放つ。食事は文明構築において全ての秩序を支え、食事秩序は全ての基礎を作る。不適当な食事行為を矯正すれば、文明の持続可能が実現する。
  食学原則はあなたや私を変え、食学原則は世界を変える。

注(参考文献)  
1、劉廣偉『食学』(第二版)[M].北京:線装書局、2021:2-5
  2、劉廣偉『食学導論-食事における客観規律の自主知識体系構築についての提示』「J」.山西農業大学学報(社会科学版)2023、22(1):112-125
  3、GB/T 13745₋2009、中華人民共和国国家標準科目コードおよびコード。北京:中国規格出版 社、2009年
  4、Newtonlsaac.Mathematical principles of natural philosophy[M].London:1814.
  5、Playfair J.Elements of Geometry:Containing the First Six Books of Euclid,with a Supplement on the Quadrature of the Circle and the Geometry of Solids[M].London:1814
  6、trade off(トレードオフ)とは、何かを達成するためには何かを犠牲にしなければならない 関係のこと。
  7、ハインラインのSF小説『月は無慈悲な夜の女王』(1966)に出てくる格言There an’t no
  such thing as a free lunch.に由来する。昔は酒場で「飲みにきた客には昼食を無料で出す」という宣伝が行なわれたが、実際には「無料」の代金は酒代に含まれていたため、「無料の昼食」などというものは存在しない、という意味。(池間注)
  8、N・格里高利・曼毘『経済学十大原理』[J].中国集体経済,2000(6),26₋32
  9、国連、我々の世界を変えよう:2030 年までの持続可能発展議程[EB/OL]. (2015.10.21)[2022.11.15].https://
documents-dds-ny.un.org/doc/UNDOC/GEN/N15/291/88/PDF/N1529188.pdf?OpenElement.
  10、国連食糧農業機関、世界食糧危機報告書、2021[EB/OL]。2022₋5₋5[2022-11-15].https://docs.wfp.org/api/documents/ WFP-0000127343/download/?__ga=2.254941448.1079295008.1675652031-1866122711.1674976123

 

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食学の原理
-人類の食事に関する基本法則についての展観-

劉 廣偉(中国人民大学 食政問題研究センター、北京 100872)

要旨:食学とは食事学の略称であり、客観的原理として展観する主要な内容は、食物の獲得・摂取者の健康・食事の秩序、の三領域である。食物獲得領域における客観的原理については、主として農学・食品科学によってすでに提示されている。本研究では、食の健康と食事秩序における客観的原理を挙げることに焦点を当てることとする。食の健康においては「食から筋肉へ」という原則、「人のための食」という原則、さらには「食が不調をもたらす可能性」という原則、さらには「食が病を治す」原則、「五感を刺激する審美的」な原則が客観的原則として存在している。食事秩序領域における客観的原理には、「食が文明を宿す」原則、「食品のトライアングル(三角形)」原則、「食事ファースト」原則、「食の二つのサイクル」原則、「食は秩序の基盤」という原則が存在している。この他に、これらの原理から生じた6つの補題(補助的定理)が存在している。この十大原則は食学知識体系の中核的内容であり、人類がすでに提示している客観的原理において重要な地位を占め、人類文明の基本的原則を構築している。数学・物理学・科学・経済学などの原理と比較してみると、食学原理には通俗性・実用性・生存性という三大特徴を具えている。摂食者の健康領域における食学原理は、私たちの身近に存在しているために、誰もがそれを認識し、把握し、利用することが可能であるし、80億人の健康長寿を向上させることが可能である。食事秩序領域における食学原理は、社会を治める重要なツールであるがゆえに、社会的衝突を減少させ、過剰な競争を減少させ、社会全体の運用効率を高め、人類の持続的発展を維持していくことが可能である。
キーワード:食学原理;規律;食事;摂食者;食行為;食学
分類番号:S-O  文献コード:A 文章コード:1671‐861X(2023)02-0001-12

 原理とは規律における基本的法則規律・本質的規律であり、客観的規律から原理を発見することは、人類が客観的世界を認知した昇華であり、飛躍でもあった。この分科には客観的原則による知識体系が提示され「科学」と呼ばれた。ここ200年来、様々な分野が様々な角度から様々な客観的原理を導き、科目細分化による認知は客観的世界の歩みを大幅に加速させた。
食学が提示した客観的原理とは、主として食物獲得・食の健康・食事秩序の三領域に集中している。食物獲得領域の客観的原理とは、主として農学・食品科学により提示されてきた。本研究では摂食者の健康・食事秩序領域の十大原理について重点的に述べる。食事は食べる行為を包括し、食学原理は食の学問原則を包括する。食学原理とはすなわち食事の原則であり、食べる原則とはすなわち食事原理のことである。食学原理は食学科体系の重要な内容であり、人類の食事問題や難題を解決する有効なツールである。それは最も直接的であり、最も生々しく、最も通俗的な方法であり、いかなる地球人にも恩恵を与えるものである。

1.人類はいかに客観的原則を明らかにしたか
客観的規律を発見したのは客観的世界を認知し始めてからであり、客観的世界の認知は主体の客体に対する反映である。これは実践から認識に至り、また実践から認識に至るという絶え間ない反復過程にあった。人類が客観世界を認識したのは、まず五官を通した感覚であり、それが重なり概念が出現し、言語概念から文字概念へと至っただろう。概念があれば相互交流が可能となり、交流がまた概念の増加を促進し、より多くの概念が理性的な認知を生じさせ、理性的認知が重なれば知識層を形成し、その知識層が増えれば客観的規律を生み、規律が増せば原則を発見しただろう。食学原則の発見もこれに該当しているのである。

(一)基本的概念の確認
食学原則を述べるには、その対象・認知・法則・原則などの基本的哲学概念に言及する必要があり、さらには食物・摂食者・食事・食学・食行為・摂食学などが食学基本概念とも不可分であることから、これら概念の内包的意味・外延ともに明確化すること、これにより我々が食学原則を議論・提示する前提が揃うのである。
対象とは、哲学的なものでは主体以外の客観的事象を指し、それはすなわち主体認識と実践対象である(『現代漢語詞典(第7版)』)。哲学的には「主体」とは対照的に、人間の実践活動と認知活動という一対の基本的カテゴリーを構成するものである(『辞海(第7版)』)。「対象」という概念の内容と範囲を理解するために、二つの側面からの把握が必要であろう;一つは対象と主体との関係、二つは相互が依存する関係である。認知過程において、対象は主体認知活動の対象となり、主体は認識活動の担い手となる;二つ目の対象と客観的関係にあるとは、論理的に「客観的」は属性概念に属し、文法的には形容詞となる。「客体」は実体概念に属し、文法的には名詞である。二者の概念と外延とは全く異質であり、完全に別関係であるといえる。
認知とは、思考活動を通じて認識・理解するものである(『現代漢語詞典(第7版)』)。すなわち、人類が客観的事物を認識し、知識を身につける活動を指している。これは感覚・記憶・言語、思考や想像力などのプロセスが含まれる。認知心理学の観点からみれば、人の認知活動とは人が外部情報を積極的に取り込み加工して獲得するプロセスのことである(『辞海(第7版)』)。認知と認識とは同一関係にあり、異なるアプリケーションシナリオ(応用場面)における別表現である。認知は反映されたものを強調し、認知はまた結果を強調する。認識とは対象に対する主体の反映であり、認知はさらに実践を通じて客観的事物を理解掌握すること、実践とは認知が正確か否かを検査する唯一の基準のことである。
規律とは、事物間に内在する本質的な繋がりである(『現代漢語詞典(第7版))』)。さらに、事物の発展過程における本質的連携と必然的趨勢のことである(『辞海(第7版)』)。規律は事物間のつながりであり、この繋がりは絶え間なく何度も出現し、特定の条件下では頻繁に起きる作用であって、しかも物事の発展傾向を決定している。規律には、普遍性・重複性などの特徴があり、客観的であり、物事自体に内在しており、人間が規律を創造・変更・排除することはできない。しかし、それを理解し、それを人類へ運用するための利用は可能である。
原則とは、通常は普遍的意味を持つ基本的規律を指す。規律は原則を包括し、原則は基礎的規律となり、規律の中でより一般的意義を具える規律となる。数量面では、規律は原則より多い。機能面からみると、原則はより一般的かつ主導的であり、実践と理論においては積極的な指導的作用を果たしている。規律と原則との関係は従属関係であり、原則は科学体系において中核的内容となる。別の学問においては、原則はまた公理・定理・定律などと呼ばれている。
食物とは、食料に供されることのできる物質である(『現代漢語詞典』)。人類の食物はこれまで四大分類、即ち植物・動物・微生物・鉱物であった。ここ200年では「合成物」が人類の食物連鎖に入ってきて、第五類「合成食物」が増加している。食物には水・食糧・食品・野菜・果物・肉や卵・飲料・口服薬などの物質がある。人々は習慣的にしばしば飲と食とを分けて述べるが、実際には飲料も食物であり、水は基本的な食物なのである。日常生活において、人々は食物の欠充や疾病治療効能を区別していて、疾病を治療する効能がある食物を口服薬物と称している。
摂食者については、『現代漢語詞典』には収録されていない。摂食者とは食事の主体であり、食事原則を研究するためにはこの概念を確立する必要がある。摂食者の定義は「食べることが視覚下の人及び人類に必要なことである」となり、全視覚下の人や人類ではなく、食べるという角度から認識した人・人類であり、食べることは個体の健康的生存・集団の調和・人口の持続性、すなわち人間の本質を理解する次元であり、食事問題を研究する核心である。摂食者の角度からみえる問題には、生存・健康・長寿がある。食業従事者とは食事を職業とする人であり、食物生産・加工・保管輸送から食品法・行政・教育などに従事する人であり、食業者自身も摂食者である。
食事という言葉は『現代漢語詞典』には収録されておらず、古代漢語にも「食事」という用例が非常に少ない。食事の定義とは「人類の食物入手・食物利用の現象と活動」である。 食事には摂食者による食行為・飲行為・生存・健康、それだけにとどまらず食物の栽培・養殖・調理・発酵などの事業、さらには摂食者の食事・飲料・生存・健康などのほかにも、食事秩序の維持に関連する法的・経済的・行政・教育などの事項をも含んでいる。人類の発展歴史という長い河からみると、食事の歴史は550万年を優に超え、食事は諸事の前にあるだけでなく、文明の前にも存在しているのである。食事は人類生存の第一項目であったし、過去において我々は食事という範囲を狭く矮小的に見ていたが、それは食事と摂食行為との意味を混同していたからにほかならない。
食学とは食事学の略称であるが、『現代漢語詞典』にはこの二語とも収録されていない。食学の定義とは「人類の食事を客観的規律的な知識体系として提示する」ことである。食学は人類の食事問題を解決する研究、人と食物間との関係及び規律的知識体系の研究、人類の食事行為の発生・発展及びその規律的知識体系に関する研究、人類の食事行為と食事問題との間にある因果関係を研究する知識体系研究、人類の正確な食事行為の継承・不適切な食事行為の是正・持続発展可能な知識体系の維持、これらについて研究している。 食学は伝統的習慣から飛び出して、すでに農業・食糧・食品・栄養という視野から問題を見るのではなく、より大きな概念を選択した―すなわち食事である。食事という視野から人類普遍に存在するすべての食に関連する問題について、部分的認知を全体的認知に置き替え、「盲人象に触れる」式をグローバルな洞察に置き替え、人類における食事問題を全面的に解決しようとしているのだ。
「喫事」すなわち食行為、これも『現代漢語詞典』には入っていない。喫事の定義は「人間が食物を摂取する行為と結果であり、食行為は食事内容の一部であり、この二者は帰属関係にある」とする。喫事は個体との間に三点の関係を有している;一点は生存関係であり、摂食行動がなければ生命維持ができない;二点は疾病関係であり、欠食・過食・偏食・厭食などは全て疾病の原因となる;三点は疾病治療関係であり、日常的食物・本草的食物・合成食物のいずれも疾病治療が可能である。人体の食物ニーズを十分に満たせば健康であり得るわけであり、人体の食物ニーズに背反していると病気を発生するだろう。健康的な食事をするために食品の量や質を保障するだけではまだ不十分で、正しい食べ方が必要となってくる。満腹することは食物量の問題、しっかりと食べることは食物品質や種類の問題、健康に食することは食べ方の問題である。というのも食べ方により病気を引き起こしたり、病気を治したりすることができるからだ。個々人の体の違いを尊重することは食べることの本質であって、胃腸や体の様々なニーズを満たすことが食べることの内容である。食事と医療とは相互関係にあり、その交差点が消化系の使用であり、経口治療が医事の重要な部分であるが、これはまた食事の重要な部分でもある。
喫学、これも『現代漢語詞典』には収録されていない。喫学の定義は「(人間が)食物摂取した行動と結果全過程についての知識体系であり、喫学は食学の内容の一部」である。喫学は喫事(食べること)を研究対象とし、食物の利用効率を研究する知識体系である。またどのようにすれば満足できるか、また食物ごとの転化系統が合致しているのかを探る知識体系である。さらに食物と体とをどうすれば最も適合できるのかを研究する知識体系である。つまり、如何に食べることで健康長寿を創生できるのかを研究するものであり、どのように食べれば自己のためになるのかを研究するものである。喫学体系は食事方法学・美食学・食事治療学・食事療法などを包括する。食事方法学は人の食物転化系統要求を最大限に満足させることを研究する知識体系であり、喫事美学とも称される;喫病学は食物・食べ方と病因との関係を研究する知識体系であり、喫事(摂食)疾病学とも言われる;食事療法は食物と疾病回復間の関係・その規律を研究する知識体系であり、喫事(摂食/食事)療法とも称される。

(二)人類が明らかにした客観的原則
 人類が明らかにしてきた客観的原理の探究には長い歴史があり、客観的原理を明らかにする歩みは決して止まらず、それを明らかにするペースは大幅に加速している。理論上からみれば、明らかにされた客観的原理は主として科学システムに存在しているために「科学的原理」とも呼ばれる。科学とは学問により客観的原理を明らかにする知識システムであり、科学は人類が認知した客観的世界の優れた成果である。中国の『学科分類とコード』が明らかにしたところによれば、今のところ62の一級学科レベル・676の二級学科レベル、2382の三級学科レベルがあり、これらの科学システムの合計は、今日の客観的世界に対する人間の理解深度・幅を反映している。様々な科学が様々な視点から客観的世界を理解し、それぞれの視点からそれぞれの分野における客観的原理を見つけていくのだ。以下、食品科学の原則の精緻化をより良く理解するために、物理学・化学・数学・経済学などの他の分野における客観的原則を挙げ、より良く理解できるように食学原理を提示し述べていこう。
物理学によって明らかにされた客観的原理は、主として物質の動的分野と物質の基本構造とに焦点を当てている。例を挙げると、ニュートンの第一法則(慣性の法則)は「全ての物体は、外的力を受けていないときには常に静止しているか、一様な直線運動の状態にある」とされ、力と運動との関係を巨視的なレベルで明らかにし、人々が力とその役割を正確に把握できるようにし、機械の製造を重視し、産業革命を促進し、近代化の急速な進展に繋がった。 化学により明らかにされた客観的原理は、主に物質組成・構造・特性および変化に焦点を当てている。例えば、電荷保存則は、「溶液中の陽イオンの総正電荷は陰イオンの負電荷の総量に等しい。すなわち、正味電荷数は、イオンが関与する化学反応の前後では変化しない」と述べられている。化学原理の適用は人間の日常生活と密接に関連しており、人間の生活の質向上に大きく貢献している。数学により明らかにされた客観的原理は、主として量的関係と空間形式の分野に焦点を当てている。例えば、ユークリッド幾何学的並列性公理による「線の外側の点により既知の線に平行な線を1本だけ持つ」 という数学的原理は、非常に抽象的・厳密・論理的であり、広く適用できる。経済学により明らかにされた客観的原則は、主に社会的製品の生産・交換・流通・消費、及びその他の分野に焦点を当てている。例えば、N・グレゴリーマンキューが提唱した経済学の10原則の一つは「人々はトレードオフに直面する」であり、この原則に対する典型的な解説は「フリーランチ(タダ飯)はない」である。経済学の原則は、社会開発の推進に積極的な役割を果たしている。
以上に挙げた例に示されている、規律により明らかにされた科学的原則とは、規律システムをサポートする上で重要な部分である。異なる次元を観察し、異なる対象に焦点を当て、異なる方法で表現したとしても、それらには共通の特性を保持している。すなわち、彼らは客観的方法によってのみ、これらの問題を効果的に解決することができるのである。食学原則も同様にこの属性を持つ必要がある。

(三)人類が明らかにした食事の客観的原則
現代科学は今日まで高度な発展をしてきているが、なぜ人類は哺乳類が持つべき寿命まで生きられないのだろうか? 脳の容量が大きく、知恵ある人類と称されているのに、なぜいまだに8億人が飢餓の中にいるのだろうか?20億人がなぜ食べることにより慢性病にかかっているのだろうか?なぜ数十億人が食品安全の脅威に晒されているのだろうか?なぜ食物資源の奪い合いによる社会衝突が不断に起こるのだろうか?食物連鎖の中の一つにある人類として、なぜ生態干渉が激化し、それにより自分自身の生存と長命とに脅威を来しているのだろうか?これらの問題が長く存在していること、これは全て我々がその中にある客観的原則を提示・利用してこなかったからである。食事原則を明らかにするとともに、食事原則を把握して、それを利用してこそこれらの問題を有効に解決することができ、これを基本としてこそ百年・千年続くことのできる調和の取れた世界食事秩序の構築が可能なのである。
摂食者の健康領域である食学原則とは、「食を筋肉に変える」原則、「自分のために食べる」原則、「食が疾病となる」原則、「食が疾病を治療する」原則、「五感の審美」原則である。これらの原則には食物・食べ方と個体の生存・健康の本質関係とが提示されている。これらの原則はどこかで耳にしたような気がするのだが、我々はこれまで真剣にそれらの存在を考えたことはなかった。我々はこれらの珍しくもない観点について、食事の基本的規律という角度から見て、食学原理の高度な把握力を高め、我々のほうから自覚的にそれを運用すれば、我々全員の健康長寿を延ばすことが可能となろう。
食事秩序領域における食学原則とは、「食が文明を孕む」原則・「食物トライアングル」原則・「食事ファースト」原則・「2つのサイクルとしての食物」原則・「秩序の基礎としての食物」原則がある。これらの原則は人類の社会行動の基本規律であり、食事と生態・文明・社会間の本質的関係を提示したが、これは人類が認知した客観的世界の重要な発見であり、人類の文明進歩・社会秩序・持続可能な発展などの問題解決のために理論的支柱を提供し、人類の文明社会における基礎を構成し、人類の社会秩序の基礎を形成するものである。仮にこれらの原則を遵守しないとすれば、社会は不安定となり、文明は持続困難に陥るだろう。
食学原則は物理学・化学・数学・経済学などの学科原則とは異なり、3点の明確な特徴を持っている。一つは通俗性であり、食学原則は奥が深く分かりにくいということはなく、抽象的な形式ではなく、難渋な術語(専門語)もなく、一般の人が理解しやすいものである。食学原則は私たちの日常生活にあるが、「この山の中にあるのだが、本当の形を知らない」だけである。二つには実用性で、まず食学原則では個人の問題を解決することができる。食学原則は、食が病気を治療し、健康長寿を作る食べ方を作ることもできる;次に、食学原則は社会問題を解決することができる。食学原則は食事と文明との本質関係を提示し、食学原則を応用することで人類社会の融和発展を促進することができる;第三は生存性である。食学原則は全ての人の生存と健康だけではなく、人間集団の生存と発展にも関係している。食学原則に背くことは、個人の生存と集団の発展とを脅かすことになる。優れた食学原則を利用すれば、個体の生存質量を高めることができ、人口の持続発展を支えることができる。食学原則とは人類文明の発展過程における重要な科学的発見なのだ。

2.摂食者の健康領域における食学原則について
摂食者とは食べるという観点からみた「人」のことで、食べることは食事の一部であり、人の食物摂取の行動と結果である。食べることは人間が生存し健康であるための基礎である。人は食べなければならないし、食べなければ命はない。食べることが人の生存を決定し、人生の生存質量を決定し、さらに人々の健康と寿命とを大きく左右する。食べることと人生の間には内在的客観規律があるのだろうか?その答えは「イエス」である。では、これらの規律はどこにあるのだろうか? 歴史や身近な経験が我々に教えてくれる;人はこの領域の探索に対して停止したことはないのだが、ただ高度な概括に欠けていただけだった。食べることは健康において両面性を持つ。つまり健康長寿を願って食べることもあれば、また食べることにより病気になったり、亡くなったりすることもある。人類の食事の歴史を考察すると、大体食事の客観的規律を遵守していれば、健康長寿となるはずであり、およそ食事の客観的規律に反していれば、体内の内部平衡を失って、筋肉が異常状態を呈し、疾病を誘発し生命の脅威に晒される。恐らく人の個体差異が複雑であるために、その中の一般規律を深く観察したり探索したりする人が少なかったのである。あるいはこうも言えるだろう、前人がすでに規律について述べているにもかかわらず、我々が重視しなかったために、日々見ていたはずのものが目に入らなかったのだ。健康とは人類永遠の追求点であり、摂食者健康領域における食学原則は、地球に住む80億人の健康と家庭の盛衰とに関連しているのである。食事の両面性を認識し、食事の客観原則を把握すれば、自己健康主導権が握れるだろう。
食物と食事、そして食学と喫学とは属と種の関係であるため、次の5点の原理は摂食原則または食事原則と称することができる;無論、摂食学原理または食学原理と称することも可能である。それらは全ての人の健康と密接に関連し、一人一人の健康と長寿とを客観的に規範付けるものである。

(一)「食が体をつくる」原則
 「食が体をつくる」原則の内容とは、「人の体は食物から変換されたものであり、それは骨・血液・内臓・筋肉・脳・皮膚・毛髪などである」ということである。これは複雑な変換プロセスであり、非常に知的なシステムである。また、それは食物がなければ体が存在せず、食物がなければ生命は無いということでもある。「食が体をつくる」原則とは、食物と体との本質的関係を明示している。
食物は人体組成の基礎であり、人間が存在する前提である。食物がなければ生命は無く、従って生命は食物と不可分なのだ。母親から誕生した時は、一般的に数キロの体重だが、成年後は数10キロ或いは100キロ以上にもなるが、このような現象はどこから由来しているのだろうか?実際には全てが食物から変換されたものである。たとえ母体で育まれたとしても、間接的に母親が摂取した食物から形をかえて摂取したのである。このことから、人体は食物転化によりできているという結論が導き出されるが、これはただ単に栄養学により問題が解決されるだけではなく、食物と人体間における物質形態転化という客観的規律である、と結論付けることができる。過去において我々は「飢えを満たす」ために食べると言い、空腹を解決する問題だとしていたが、このような認識では不十分である。実際、食事の本質とはまず「体をつくる」ことが第一義であって、とりわけ児童青少年の成長期においてであって、飢えを満たすのはその次なのだ。「食が体をつくる」原理は我々に、生命・生存という観点から改めて食事を再認識しなければならないと告げている。過去において我々は、食物と生命との関係を過小評価していたのだ。
食物の体への転換には、遺伝学・酸素・体温その他要因の支持が必要で、これは非常に知的なシステムといえる。知恵という観点からみても大脳に劣らないことから、食の脳すなわち「食脳」と称せようが、食脳はただ単に消化系統のみならず、また腸脳・胃脳のみを限定するのではなく、その変換メカニズムに対して深く探知しなければならない、まさに21世紀において正視すべき課題である。食脳と頭脳との関連性からみると、「食脳に軍配が上がる」原則が引伸されよう、すなわち「食脳は体の生存性と健康とを決定し、頭脳は食脳のために働く過程において発展したものであり、食脳は頭脳を支配するが、頭脳は食脳を支配することはできない。二者は上下関係にあるが、ただ頭脳が食脳に従うことのみにより健康長寿の実現が可能なのである。これが逆転すれば健康・生存が脅威に晒されてしまう」ということである。
食脳の出現は頭脳に先行し、食脳の誕生は環節動物の真体腔出現にまで遡ることが可能で、食物変換システム器官は5億年前のカンブリカ紀に遡ることも可能だ。頭脳誕生の痕跡は、約2億年前における哺乳動物の大脳皮質出現である。両者の差異は数億年のレベルで、頭脳は食脳の欲求が満たされていくプロセスの中で徐々に進化したものであり、食脳のために働いたのであり、人類の頭脳はこれによって一層発達したが、依然として食脳の下位にあり、食脳のために働くという地位に変化はなかった。食脳の存在とはすなわち頭脳の存在であるため、食脳が無くれば頭脳も無くなってしまう。逆にいえば、頭脳が活動を停止しても、人は依然として生きることができるのである。
食物に直面した頭脳は誤作動を生じることがある。今までずっと、人々が食事をするのは自己の生理的欲求ではなく、多くは社会的欲求であった;例えば新年や節句を過ごすだとか、冠婚葬祭や、友人との交際等々である。このような際にはしばしば大宴会となり、しばしば食べきれずに、積もりつもって健康をそこなってしまうこともあった。我々はよく「空腹」だと口にするが、実際にはそれほど空腹なのではなく、「口がいやしい」空腹であり、「美味しそうだから食べてみる」たぐいで、胃腸からの欲求を精査せず、頭が誤導しているだけなのである。
化学食品添加物という「魔法の達人」に直面すると、頭脳を司る五官はしばしば高度な魔法に騙されて人造合成食品を本物とみなしたり、粗悪な偽装食物を高品質だとみなして体内に入れたりして、食脳の操作メカニズムに反した結果、体の健康を害することとなるのである。
「食が体をつくる」「食脳を君子(最も大切な存在)とする」原理の価値とは、今日の頭脳崇拝時代において非常に軽視されており、人々が食物と体との本質的関係を軽く扱い、食事の客観的規律に背いていると、最終的には体の健康を損なってしまう恐れが生じるだろう。

(二)「体と食との結合」原則
 「体と食との結合」原則の内容とは、「体と食物間との健康的な結合をいう。各人の身体は異なるし、しかも絶え間なく変化しているがゆえに、自分の体が要求するという特質に基づき最適な食べ方を各々が選択し、食物と体との最も理想的な結合をみつけること、こうしてこそ食べて健康になることが可能なのだ。この原則に背けば疾病を生じるだろうし、体の健康にとって脅威となる」ということである。「体と食との結合」原則は個体の健康と、食物・食事法における本質的関係を明らかにしてい
る。「体と食との結合」原理は、食物と個体の健康との結合性を明らかにしている。
現在世界には80億人がおり、それぞれが皆唯一の個人であり、しかもそれぞれが独特である。食学の角度から見れば、80億人が80億人ともに異なった食物転化システムを有しており、食物に対して80億の対応要求があるということである。これは決して総体平均値でもって解決することのできる問題ではないのだ。
世界の80億人は一ヶ所の工場で生産される標準物ではない。理論的に言えば、80億人の需要に対しては80億の健康的な食事マッチングが必要であり、どの人も自分に適合する方法の入手を望んでいる。だが、大変残念なことに、他人に頼ったとしてもこの案を構成することはできない、なぜならば外ならぬあなた自身が自分の体におけるどんな微細な変化をも一番理解しているからだ。では、私たちはどのようにすればこの方法を設計することが可能なのだろうか?それは「七つの実践と二つのテスト」原則を守ること、即ち食事中に七つの実践を行ない、食後に二つのテストを行なうことである。食事中の七実践とは食事の過程において、数量・種類・温度・速度・頻度・順序・火の通り具合(通っていないか通っているか)など、この七方面が自分の身体に適合しているかどうか。食後の二つのテストとは、食事が終わった後に、排泄物や身体の変化を客観的に観察することを通じて、摂った食事が正確であったかどうかを点検するのである。これにより一回の食事が体内循環形成され、これを反復して体験することにより、徐々に自分と食物との連結規律が見出されるのである。
健康長寿を目指して食べたいのであれば、誰かがこう言ったああ言ったとか、皆が食べるから自分も食べる、ということはもはやできない。また、「毎日6グラムの塩、8杯の水」などという、総体的平均値による指導などに頼ることはできない。例えば、成人の体内含水量は70%前後であるが、体重50㎏の人と75㎏の人とでは、含水量はそれぞれ35㎏と52.5㎏となって、両者の含水量差は17.5㎏である。仮に毎日8杯の水を補充すれば、不足する者も、超過する者も出るだろう。ここから理解できるように、集団平均値と個体の実際的要求値との間には一定の差異があり、この差異を縮めようとすれば、個体が必要とする傾向値を求める必要があろう。工業社会においては標準的であることを提唱し、標準をもって万物に対応することで、効率を倍増させている。標準を人に用いれば、誤差を生じるために、一つの標準のみでは80億人個々の需要には完全対応ができないのである。言い換えれば、食べることにより健康になるという事においては、統一された標準や、統一された量に頼ること、これが最適な選択であるとはいえない。体と食とが適合するようにすること、こうしてこそ健康長寿が実現するのである。
人類が認知する客観的世界とは、「人に対して」と「物に対して」のスタイルが異なるということである。「人に対して」の認知体系は、個体の差異性を前提として、個体のアライメント値を追求するものである。このような知識体系は、一つを用いて標準的数値とすべきではなく、しばしば適宜・適量・少々などの概念を使用する。というのは、このようにしてこそ無数の各個体における客観的実物に接近することが可能となるのだ。食学における食事学もまた同様であり、このような「人」と「物」の認知パラダイムの差異もまた、東西文化が認知領域において差異があるということである。ここから分かることは、東方の伝統的認知体系の中に、優秀で価値のあるものが見受けられるということである。
健康長寿のために食べたいのであれば、人の言うことに追従したり、人が食べているから自分も食べるということはできない。また「毎日塩を6グラム、水を8杯」などという集団平均値的指導だけに頼ることはできない。例えば、成人の水分含有量は70%前後であるが、体重50㎏の人と75㎏の人では、水分含有量が35㎏と52.5㎏であるため、この二人の水分含有差は17.5㎏となる、仮に毎日コップ8杯の水を補給すると、不足する人も過剰になる人もでてくる。ここから分かる通り、グループ平均値は個体の実際の要求値とは一定のギャップがあるもので、このギャップを埋めるためには、個々のアライメント値(個体実際要求値)を見つける必要がある。産業社会は基準を提唱し、すべてを標準化することで、効率を増している。この基準は人に対して誤差を生むために、一つの基準で80億個々人の要求を満足させることは不可能だ。換言すれば、健康的な食事に関しては、統一基準・統一量に頼ることは、最も望ましいことではない。その人のために食を作ることさえできれば、健康長寿が実現可能なのである。
人類は客観世界を認識しているので、「対人」と「対物」のカテゴリーが異なり、「対人」の認知体系には、個体の差異性を前提とし、個体趨勢値を追求することが必要とされる。このような知識体系は、一つの基準でデータを表現することが不適当なので、しばしば適宜・適量・少々などの概念を用いがちである。というのはこのようにすれば無数の個体における客観的実数に近づけるからだ。食学における喫学もまた「斯(か)くの如(ごと)し」であり、このような「対人」や「対物」認知モデル差異は、東西文化の認知領域差異でもある。それゆえに、東洋の伝統的認知体系の優位と価値とを窺うことができるのだ。

(三)「食が病を生む」原則
 「食が病を生む」原則の内容とは、「食事は人類疾病の原因であり、不適切な食物・不適切な食事方法により疾病を引きおこしたり、体の健康を脅かす。正しく食べることにより疾病を予防することができる」ということである。「食が病を生む」原則とは、食べることと病気発生との本質的関係を明らかにしている。
人類の疾病の原因は主として遺伝・環境・飲食・温度・運動・心の健康の6方面がある。そのうち遺伝と環境とは客観的要因、飲食・温度・運動・心の健康は主観的要因である。飲食はそのうちの重要な側面の一つであるが、食べることにより引き起こされる疾病を、摂食病といい、略称を喫病という。これは新概念であって、不適切な食物や食べ方により引き起こされる異常状態で、食物に問題があって惹起した疾病のみならず、食べ方の問題により起きた疾病をも含む。病因という角度から疾病名を付けることは、以前の病状により命名していたことと比較して、予防的積極的意味を具えている。それは病原を直接的に示すことが可能なので、患者が疾病に対して茫然とすることなく、治療を有利に進め、積極的な予防に役立つのだ。
食事由来の疾病は主に欠食・過食・汚染食・偏食・アレルギー食源・食欲不振の6要因からきている。長期欠食は栄養不良を引き起こす;過剰摂食は多くの慢性病源となる;汚染食の摂取は健康不良の脅威となる;慢性的単一食物摂取は栄養失調につながる;慢性的食欲不振も栄養失調につながる:食物アレルギーは体質の問題だが、同様に健康不良の脅威となる。上述の6病源のうち、「過食」問題は比較的軽視されやすく、「過食は体を損なう」ことを「食が病を生む」ことの下部原理とする必要がある。なぜならば、世界に20億人近くいる過食問題者に対して、プラス効果をもたらすだろうから。
「過食が体を損なう」原理とは、「自分の体に必要な量以上の食物を長期的に摂取すると疾病を招く」ことを指している。過食問題が氾濫する大きな原因は「欠食行為の習慣」である。欠食行為の習慣形成は、積極的にエネルギーを蓄えるという本能に由来する。太古の時代、人類は食物の甘い果実や動物に火を通した後のまろやかな香りを発見し、ここからさらに安全で飢えを満たすよう、美味しいものへと変化させた。こうして徐々に甘く香り高いものを積極的に貯える、という飲食習性を形成していったのである。数百万年の進化の過程を経て、この修正はすでに遺伝子に記録された本能となったのだ。今日、食物が充足しているという環境において、人類が積極的にエネルギーを蓄えるという実情は、カロリー過剰をきたすのだが、継続的飢餓の放出場面が失われたために、体のメカニズムが乱れて病気を引き起こすのである。
健康管理について、人はみな「予防第一」原則を理解してはいるが、多くの人はどこから着手したらいいのかが分からない、常に把握しにくい・把握できない・把握しきれないと感じている。「食が病を生む」原理を理解して、6つの食事病因から把握しはじめれば、それらが予防第一の簡単なものだと理解できよう。「食が病を生む」原則の価値とは、疾病発生を予防することにある。

(四)「食が病を治す」原則
「食が病を治す」原則の内容とは、「食事は疾病を治療する重要な内容の一つであり、消化吸収システムを借用して体の失調状態に干渉すること、これは古くに発見されたものの利用である」ということだ。食事は食がもたらした疾病を治療できるだけでなく、さらにその他の病因がもたらした疾病をも治療できる」。「食が疾病を治療できる」原理とは、食事と治療との間に本質的な関係があることを示している。
「食が疾病を治療できる」原理をはっきりと言うために、まず食物概念の内包と外延とを明確にしなければならない。『現代漢語詞典』では食物を「食用に供することのできる物質」としている。食物分類区分によれば、食事療法に利用するのは二つの方面である。一つは天然食物を用いた治療、二つは化学合成食物を用いた治療である。天然食物を用いるものには、更に一般食物治療と本草食物治療とに分けられる。
通常、人は食物を一般的と治療的というように異なった効能として分け、治療効能を持つ食物を薬物(口服薬物)と称しているが、段々とその食物属性を忘れている。
「食が疾病を治療できる」原理とは、「食物には疾病を治療する偏性がある」ことと「食と薬は同じ理である」という二点の原理が引申されている。「食物には疾病を治療する偏性があること」とは、「天然食物の偏性を利用して体の偏性を調節し、疾病を治療する目的を達成する」ということである。近代人は食物成分の認知に対して元素を重視した。実際には、顕微鏡が発明される前にも、平性・偏性の区別はあった。食物偏性は体の不正常状態に作用することが可能で、疾病予防と疾病治療という目的を達することができたのである。
「食物偏性による治療」には三方面がある:一つは体の平衡を調整し、病根進展を抑制すること;二つは「食病」を治療して、健康を恢復すること;三つはその他の原因で引き起こされた疾病を治療し、健康を回復することができることである。食物偏性に対する認知と利用は、人類が長い年月にわたって蓄積した知恵であるが、今に至るまで学界による十分な重視が喚起されていない。天然食物治療によって疾病を治すことは副作用が少なく、コストが低いのだ。食物偏性について早く認識し、早く利用すれば、それだけ早く恩恵が受けられるのである。
偏性食物を利用して疾病を治療することは人類の普遍的行為であり、化学合成食物(口服薬)出現の前においては、世界各地の人々が疾病と戦う過程で、様々なレベルにより食物偏性の作用を認識・掌握し、そしてこれでもって疾病を治療していたのだ。この領域において中国人は非常に豊富な経験を累積し、食物がもつ性質と疾病との間にある客観的規律を明示し、比較的整った知識体系と科学三要素とを形成してきた。この知識体系は、中華民族の発展と継続とのために巨大な貢献をし、また人類の健康のために積極的な作用を起こしてきたのである。
「食薬同理」の原則は「食薬同源」認知に対する昇華である。「薬食同源」は薬物と食物との来現が同一であることを強調している。実際には、食物と口服薬物との間にはもう一つの本質関係があるのだが軽視されていて、これこそが「食薬同理」なのである。「食が疾(やまい)を治すことができる」が引申された原理であり、「食薬同理」とは「食物と口服薬物とはいずれも口に入れること、そして胃腸を通過して体の生存と健康に作用すること、体は決して単独器官ではなくその区分に対して個別処理すること、二者の運行体制は本質的に同じである」という事である。原理から言えば、二者はいずれも食物転化システムと健康に生存することとの関係を利用して作用を発揮しているのだ。この理屈から明らかなように、食物を食べることにより薬物を減らせらるだろう。
「食は疾病を治療できる」という原則および「偏性食物は疾病を治療する」「食薬同理」の原則は我々へ次のように告げている、それはすなわち全ての食物摂取と体の健康との間にある普遍的規律、及びすでに発見された疾病予兆は、まず食事を把握して疾病を治療するという基本順序があり、先に食物で飢えを充当し、それから本草食物、その後に合成食物というようにすること。医療レベルや病院施設の優劣については、医療効果を高くしてコストを低くするものであって、その他のものは必要ない、食事療法にはこういった特徴がある。

(五)「五感の審美」原則
「五感の審美」原則の内容とは、「食は五感の審美、すなわち味覚・嗅覚・触覚・視覚・聴覚を通じて感知するもので、嗅覚・味覚・触覚(口腔)を主として、視覚・聴覚を従とする審美過程である。食事審美の反応とは二元的なもの、即ち心理反応と生理反応である。こうして美味と健康との統一を強調するものである」とする。「五感の審美」原則は食べることと審美との間にある本質関係を示している。
絵画・彫刻は視覚の審美であり、音楽・歌曲は聴覚の審美、映画・劇は視覚と聴覚の統合審美である。ただ食のみが味覚・嗅覚・触覚・視覚・聴覚が共同参与する審美形式となっている。五感審美の本質とは3+2の関係であり、味覚・嗅覚・触覚は食の審美中核、視覚・聴覚は審美補助となっている。というのは、視覚を持たない視覚障碍者や聴覚を持たない聴覚障碍者であっても、美食を味わえるし、食の健康を享受できるからである。食の審美はまた食物美学と称されている。
伝統的な美学理論では、視覚・聴覚の審美的効能を認識しているのみで、味覚・嗅覚・触覚はその中に入っていなかった。実際には、人類の審美は味覚にあり視覚にはないのである。「五感の審美」原理の提案は、客観的な法則を明らかにして、伝統的な美学理論の封じ込めを打破することにある。人類は外界からの情報を、五感を通じて知覚し、愉快あるいは嫌な体験を生み出すが、これは身分の上下に関係ない。食物の味・匂い・触覚・形や音は、同時に人々の五感に作用して感受していくが、これは他の審美形式には備わっておらず、全感覚による芸術なのである。
実生活において、人々は一皿の料理に直面すると、それがまだ口に入る前においてその芸術性を賛美する場合、しばしば視覚効果について語られるが、これは視覚審美が芸術界を支配する慣性だからである。実際には、料理の視覚効果は絵画彫刻作品の視覚効果よりずっとギャップが大きいのだ。視覚審美をもって審美成果を食することは偏見や誤解を招くものであって、客観的規律にも違反している。
食の審美学に精通している人は美食家すなわちグルメと呼ばれるが、美食家には創作と鑑賞の二つのカテゴリーがあり、5種類に分類することができる。製品を調理することに精通しているものは、調理美食家であり、調理芸術家とも称されている;発酵食品に堪能なものは発酵美食家として知られ、また発酵芸術家とも称されている;食品の鑑別に精通しているものは、伝統美食家とも称されている;食べ物の試食に堪能で健康的な食事ができるものは、健康美食家とも称されている;美食の創造と食の鑑賞の双方に通じており、さらに健康的な食事ができるものは大美食家とか美食大家とも称される。
食学の観点からみると、鑑定(ティスティング)分野での美食家の最初のコードとは、非美食家よりも健康長寿であるということであり、仮にこの点が不足していたら、非美食家たちがいまだ健在であるにも拘わらず、美食家は早世してこの世にいないということで、その人はプロの「食いしん坊」だった、と言わざるを得ない。この「食いしん坊」は食糧欠乏時代では羨ましがられたものだが、食糧が充足している時においてはもはや時代遅れの落伍者である。現代社会は人々が健康に食べられるよう導くことができる、新しいグルメアイドルを必要としていて、それは「五感双元」(五感デュアル)に準拠した現代グルメである。
「二感」から「五感」へ、「一要素」から「二重要素」へ、これは食事審美に対する客観規律の完結を示しており、伝統的美学理論の補完と改善とをなすものである。その最大の価値は美味と健康との統一であり、誰もが美食を享受すると同時により長く健康長寿生活を送ることである。

3.食事秩序領域における食学原則
 食事は人類社会を構築する基礎的活動であり、個人の生死のみならず、人類社会の盛衰をも決定し、人類社会が調和するのか対立するのか、持続していくのか停止してしまうのかを決定する。社会秩序という観点から観察してみて、人類の食事秩序には内在的規律があるのだろうか?答えは「イエス」だ。では、これらの規律とは何だろうか?人類の発展史を振り返ると、食事秩序の客観的規律を遵守する段階では、平和で繫栄した時代だった;およそ食事秩序の客観的な規律に背いた段階では、衝突・戦争が絶えない歴史時代だったのである。おそらく食事秩序が生存利益に対して危ぶまれると、人類は声を出したくなくなるのだろう。或いはこうとも言える、我々は前人に対する観察の欠乏によって帰納的結論を出してしまうのだ、と。
食事秩序領域における食学原則とは、社会的平和と種族の盛衰とに連動している。この五原則は耳にするとそれほど奥深くなく理解しにくくもないが、実は人類文明の礎石なのだ。食事秩序は社会秩序の主体であり、仮に食事秩序の支持がなければ、一切の秩序がまるごと瓦解してしまうのだ。我々は80億人の食事秩序を保つことを可能とさせるために、食事問題を管理し、効果的に、均衡を取りつつ、100年1000年と維持させなければならない。人間が生まれるや食事問題で困ることがあってはならないし、彼らの子孫もまた食事問題で悩むようなことがあってはならない、と認識することだ。その時には、人類社会の衝突は大幅に減少し、人類文明は斬新な時代に足を踏み入れることだろう。

(一)「食が文明を育む」原則
 「食が文明を育む」原則の内容とは、「食は文明に先行し、食は文明を育む。食事は文明の基礎であり、食事は文明の持続を下支えし、不適切な食事行為は文明の持続を脅かす」ということである。「食が文明を育む」原則により食事と文明との本質的関係が明らかになった。
食事は人の生存・健康に関係するだけでなく、人類文明の起源・発展とも関係している。しかし、この食事と文明との関係は軽視されてきた。人類文明の起源には二つの段階があり、それはすなわち文明要素段階と文明社会段階とである。文明要素はホモサピエンスが食物を獲得するための行為により形成された;文明社会の形成は食物馴化から生じた。文明は食事から発せられ、食事は人類の文明起源であるエネルギーとなる食物に由来している。
文明の発端となった六要素は1‐550万年前に形成された。知恵・美・礼儀・権力・秩序・継承者はひとしく食物獲得の過程から生じたものだ。知恵は食事に由来する。人類の初期は、木から地面へ降りて歩いたが、体は虚弱で、多くの大型動物からの脅威に直面し、集団闘争・落とし穴・弓矢による抗争をするしかなく、それは人類の知恵の濫用だったといえる。食物獲得工具を制作・使用したことは、人類が知恵の鍵を開けたといえよう;美は食事に由来した。人類の始まりには美的感覚がなく、美的感覚は客観世界への好感から獲得してきたものである。人類の黎明期における美的感覚は、緑の木々や青い空といった視覚ではなく、植物果実の甘さや動物料理の豊潤な香りであり、これが味覚の源であった;礼儀は食事から生まれた。礼儀の核心は謙虚さであり、人類初めての謙虚はおそらく食物に対してであって、他のものではないだろう。そして食物に謙虚となることが人類の礼儀の始まりである。敬は礼儀の重要な部分であって、人を敬い、天を敬い、神を敬うことは、いずれも食物とは切り離せなかった;権力の源は食事にある。食物をコントロールする者が、すなわち尊敬と服従の対象となった、これが即ち権力である。例えば、鼎(かなえ;三足の青銅器)は中国においては本来炊事器具であったが、後になって権力の象徴へと変容したこと、これがこの理屈を裏付けている;一族の源は食事にあり、家族の増加は食物と切っても切り離せないし、一族の持続はまず食物が持続供給可能か否かにかかっていた。食物がなければ跡継ぎができず、子孫は絶えてしまうしかない。子孫のために食物や食物資源を備蓄するのは、継承における優先問題である。
文明社会の形成は1万年前の食物馴化に拠っている。食物馴化は人を定住させ、食物を備蓄させ、社会に分業出現が起こり、社会階級が現われ、城郭・文字・青銅器などが出現して、食物馴化が人類文明社会の出発点となった。
食事は人類文明の中核的内容であり、食物は生存を決定し、生命を決定し、一人一人の生存質量を決定し、社会秩序との調和・安定を決定した。今日の人類文明を表現する形式は豊富な色彩や意図的なものであって、時には文明が本来持つ意図からかけ離れているようにも感じる。食事は人類文明の主力であり、過去もそうであり、今日もやはりそうなのである。仮に食糧という支えがなければ、あらゆる形態の文明はズタズタになるだろう。今日の文明とは、人類全体の文明ではない。なぜならば地球上にはまだ8億人の飢餓に苦しむ人がいる、そうした中で食糧問題の全面的解決が、人類文明の全体に関わる主要なランドマーク(標識)となるだろう。
食事問題は、人類文明に対する継続的かつ重大な脅威である。2015年9月25日、国連は「持続可能な開発目標サミット」をニューヨークで開催し、国連193名の構成員がサミット会議上で正式に持続可能な発展目標(SDGs)の支持を決議した。 持続可能発展目標の主旨は、総合的方式をもって社会・経済・環境の三つの角度による発展問題を徹底解決するために、これを持続発展の道へ向かわせることも含め、その主要目標を世界のどの片隅においたとしても、永遠に飢餓を消滅させることとした。この17目標中12が食事と関連しており、食事問題が持続発展の脅威となる重要な要素であることが理解できよう。2019年6月24日、大阪G20首脳サミットの世界食学論壇は「淡路島宣言」を発布し、食事四大共通認識のうち、最初の共通認識は「食事問題の有効的解決は人類の持続発展の前提である」であった。いかにして人類文明と未来に関わる食事問題とを全面的に解決していくのだろうか。

(二)「フードトライアングル(食事三角形)」原則
 「フードトライアングル」原則の内容とは、「人類の食事範囲、これは食物母体システム、食事行為システム、食物転化システムの三者間に存在し展開されてきたものである。食事行為システムは食物母体システムから食物を要求し、それを食物転化システムが使用するために提供する。そして、食物転化システムは食物排泄物や残骸を最終的に分解して食物母体システムへ戻すのである。このように構成されたトライアングル関係は人類の食物境界を反映しており(図1)、一つが欠けても食事の全体像ではなくなってしまう」ということである。また、「フードトライアングル」の原則とは、人類の食事と自然との間に存在する本質的関係を明らかにしている。

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(図1 フードトライアングル)

 「フードトライアングル」は、人類の食事活動境界を説明し、人類の食事全体を確立して、過去の食事に対する部分的認識・局部的認知だった不正確な状況から抜け出して、全面的に食事問題を認知するための理論的裏付けを提供した。
食物母体システムは自然発生的なもので、およそ6500万年前に形成された。それは食物の供給源システムで、食物の生態系であり、全人類が共有する「ビッグシステム」である。食事行為システムは社会的なものであり、それは少から多へ、小から大へと繋がる「重層的システム」である。個人の食事行為から、家庭の食事行為システムへ、一部族の食事行為システムへ、一国家の食事行為システムへと、更には世界全体の食事行為となっていく。これは多層をなすN個システムである。食物転化システムは自然的であり、個人には一つの食物転化システムがあって、どの食物転化システムも全てが異なり、今日世界にいる80億人には、80億の食物転化システムを有している、それが「微系統(マイクロシステム)」なのである。
上述により理解できるように、80億の食物転化システムは、食事行為を通じて食物母体システムを共有している。我々の個人・家庭・地域・国家の利益は異なるものの、食物母体システム下では同じなのだ。我々の家族・地域・国・種族の文化は異なれども、食物母体システム下のニーズは共通している。人類が「食物母体システム」を共有すること、これは「人類運命共同体」理論の物質的礎石であるといえよう。
フードトライアングル原則とは、自然界において人類が食物を入手し、それを利用する基本的な足取りを明らかにして、食物の全面的理解及び食事問題の全面的解決策のために、理論的支援を提供するものである。

(三)「食事ファースト」原則
 「食事ファースト」原則の内容とは、「食事は長く続く、他事は後から。食事は生存に直結し、生存問題が優先されるので、生活面はその次に。食事を優先すれば、国民は安泰である。もし他事を優先すれば、必ずや混乱が起きる」ということである。「食事ファースト」原則は食事と他事との間に存在する本質的関係を提示している。
諸事に直面するにしても、食事は第一にしなければならないことであって、他事は二の次となる。食事は人類生存にとって第一の大事であり、むろん優先されなければならない。仮に他事を優先すれば、必ずや人類の生存や持続の脅威となるだろう。ここで言う他事とは衣服・家屋・交通・医薬・通信・金融・飛行・戦争などを指す。人類の発展史という長い河からみても、食事は諸事に優先され、文明の前においてもそうであった。文明は食事の中からやって来る、諸事は食事の中からやって来る。食事はずっと昔から、文明は後からやって来た。食事が先で、諸事はその後。これはずっと存在していた客観的事実であり、変えることはできない。これはずっと存在していた客観的規律であるので、改変は受け入れられない。
工業社会における科学技術の急速な発展は、人類の様々な欲望を満たし、他事が絶え間なく増えてきた。商業競争の原則においては、多くの火急な用事が食事よりも切迫しているようだ。このような社会の運用メカニズムにおいては、人々はしばしば無意識のうちに「他事を優先する」決断を下し、食事を後回しにしているが、これは非常に危険なことである。「他事を優先する」ことは、当面の問題は解決するものの、将来的には問題がさらに複雑化するだろう。長期的総体的にみれば、このような「他事を優先する」行為とは、社会全体の運用効率を低下させるのみならず、個人の健康と人口の持続への脅威にもなるに違いない。「食事ファースト」の原則は人類の社会活動における基本法則を要約したものであり、人類社会において重要な客観的規律の一つである。この原則は人類の行動における重要事項判断を総括し、人類社会が持続可能な発展をするための客観的法則を示したものである。
さらに、「食事ファースト」原則にはまだ若干のレンマ(補題・中立的言語)を拡張することが可能だ。例えば「食は医事の前に」という原則であるが、その内容とは「食事は健康管理の上流で、医事は健康管理の下流である。上流管理を把握していれば半分の労力で効果は2倍、下流管理の把握であれば2倍の労力で効果は半分である。医事管理においても食事とは不可分である」というものである。このレンマは、食事と医事間との本質的関係を示している。食事と医事との関係を明らかにすることが、健康管理の主導権を把握する鍵である。食事は主導的健康管理で、医事は受動的健康管理である。主導的健康管理は低コスト・高効率、受動的健康管理は高コスト・低効率なのだ。だが、現実は非常に残念なことになっていて、人々が健康に言及する場合には、まず医事を思いつくか、或いは医事だけを考え、あたかも健康管理といえば医事のみにあるとみなされている。実際は、人は生まれてから死ぬまで食事と不可分なのであるが、健康な人は医事を必要とせず、病気になってから医事を必要とする。しかも、食事にも病気治癒効果があって、健康管理において食事の比重は医事よりもずっと大きいのである。

(四)「2つのサイクルとしての食」原則
 「2つのサイクルとしての食」原則の内容とは、「人類の食事行為は、必ず食物変換システムの運用ルールに従わなければならず、そうして初めて健康長寿が可能なのであり、食物母体システムの運行ルールを守ることにより、持続発展が可能となる。人類の食事行為は恣意的であってはならず、不適切な食事行為をすぐさま矯正すること、これによりもっと良く生き、もっと持続発展が可能となる」ということである。「2つのサイクルとしての食」原則とは、人類の食事行為と自然のメカニズムとの間にある本質的関係を明らかにしたものである。
歴史的にみると、宇宙生態システムの形成がおよそ5.4億年前だとされ、その間に5度も種の絶滅を経験した。今日の食システムはおよそ6500万年前に形成され、人類の食物システムの形成は2500万年前、ホモサピエンスの食がシステム形成されたのがおよそ550年万年前である。また次のようにも言えよう、この3系統の形成時期の時間差は大きいし、人類の食がシステムとして形成された時間は食母システム・食化システムより10倍以上も遅れてきたのである。人類の今日の食事行為はこの2つの千万年を単位とする運行規制を飛び越えてはいない。ゆえに、人類が行なう食事行為がこの2方面からやって来たものを受け入れ、食化システムの客観規律を遵守する合意をしたうえで、人類個体の健康長寿を維持し高めるようになったということ;さらに食母システムの客観的規律を遵守し、維持することにより、人類の持続を延長しようという、勝手な妄想をすることはできないのだ。
人類は生物連鎖の頂点にいるので、仮に食母体系が破壊されたとしても、一つまた一つと申し伝え、そこから蓄積していけば、人類そのものに危害は及ばないだろう。食物転化システムとは各人の生命システムである。仮に食物転化システムの運行制度に背いたとしたら、人の生命質量は深刻なダメージを受け、終結に至るかもしれず、そのような事になったら健康長寿は実現不可能になってしまう。人類の食事行為は、必ずこの二つの運行規制を遵守しなければならないし、この二つの運行規制に挑戦することはできず、それに適応し、それに従うことにより健康と種の持続が保たれるのである。
ここ300年来、人類がおこなった多くの行為は、食物母体システムに巨大な圧力をもたらし、食物母体の運行規制に干渉すると同時に食物転化システムに多くの障害をもたらした。特に化学合成物が食物連鎖に侵入してからは、食物生産効率と食物官能効果を高めると同時に、食物生態と個体健康に大きな脅威をもたらしたが、これは「食の2サイクル」原則に挑戦する典型的な事件であった。
「食の2サイクル」原理は我々に警告している、今やっていることはしてはいけないことで、常に反省すべきことは我々の食事行為である。それゆえに、機を逃さずに不適当な食事行為を矯正すべきである、と。これだけで、個体の健康レベルを高めることができ、こうしてこそ種を維持し持続発展が可能となるのである。

(五)「食の秩序基本」原則
 「食の秩序基本」原則の内容とは、「人類の社会秩序は食物分配と食物資源独占とに起源がある。食事秩序とは生存秩序であり、食事秩序は早くに社会秩序となり、食事秩序が社会秩序の基礎となった。食事秩序がなければ、その他の秩序はその瞬間に崩壊し、文明もまた瓦解してしまうだろう」ということである。「食は即ち順序の基である」という原則は、食事と社会秩序間との本質的関係を示している。
食事秩序とは食事システムの条理性・連続性・効率性の体現であり、食事秩序は人類秩序の最初の形式である、また全ての秩序の基礎でもあり、さらに人類の持続発展を可能にする前提でもあるのだ。国連の食糧及び農業組織(FAO)が発布した『2021年全世界食糧危機報告』によると、2020年においては世界で少なくとも1.55億人が深刻な食糧不安に直面しており、これは過去5年間で最高レベルだという。深刻な食糧不安とは、十分な食料を入手できないために、生命や生計が差し迫った危険に晒されていることを指している。紛争や新型コロナウイルス流行、異常気象などの要因の影響を受け、近年世界的規模での食糧安全問題が増加の一途をたどっている。ロシアとウクライナの紛争は、世界人口の五分の一以上に相当する17億人を貧困・飢餓に陥らせる可能性がある。 食物不足は社会衝突の重要な原因となり、食糧秩序の混乱は社会不安の重要な要因である。食事秩序の調和がなければ、社会秩序の調和はあり得ないのだ。
「食物は秩序の基」という原則は、人類における社会秩序構築の基本法則を明らかにしている。食物の合理的分配と食糧資源の合理的所有がなければ、調和の取れた食事秩序はあり得ない。調和の取れた食事秩序がなければ、友好的な社会秩序もあり得ないため、食事秩序は社会秩序の核心的内容となっている。世界的観点においては、この関係は著しく過小評価されている。今日の世界に存在する紛争の多くは、食糧資源をめぐる競争ではないために、表面的には食事とは無関係にみえる。だが実際にそそのベールを剥いでみると、最底辺ではいまだに食物資源を奪い合っていることが容易に発見できよう。調和の取れた社会秩序の構築には、まずは食事秩序の構築から。80億人の食糧利益に対応することのできる新しい秩序を構築すること、これが21世紀の世界秩序進化の基礎となるのだ。

4.結論
 客観的原則が提示するところによれば、人類が認知する客観世界のプロセス中において非常に重要なものとは、客観的原則を提示することが科学体系を構築する必要三条件の核心である、ということだ。逆に言えば、知識体系を構築するには客観的原則の提示が必須であり、客観的原則の知識体系が掲示されなければ不完全な表現となる。客観的原則を提示し、その客観的原則を把握することは、人類の問題を解決する最上の方法である。人類が提示した客観的原則は数を増し、問題解決能力も強度を増してきている。仮に人類の行為が客観的原則に違反し、間違いがあったとすれば、さらに多くの問題と対峙しなければならず、ひいては滅亡へと向かってしまうかもしれない。人類が客観世界を認知してきた道程はすでに長かったのだが、まだ多くの認知緯度が開かれておらず、さらに無数の客観的原則がその発見を待っている。上述の十大食学原則は、新角度からの認知成果なのである。
個体の生存と健康には食事が不可欠であり、その中の食事原則を提示し、食事原則を把握することにより、個体の生存質量を高めることが可能となる。「食を筋肉に変える」原則は、我々に食物が生死を決定することを教えてくれた。「人によって食べ方を変える」原則は、我々に体と食物との最も良い結合を教えてくれた。「食が病をもたらす」原則は、我々に食病予防について教えてくれた。「食が疾病を治療する」原則は、我々に食べることで病を治すことを告げてくれた。「五感の審美」原則は、我々に美味と健康とを統一すべきことを告げた。この五原則は、全て個体を取巻く食事から展開されたものであり、仮に、全面的にこの五原則を使えば、病気にかからず、またかかりにくく、食で以て病を治すことが可能になる。ここから人の健康長寿期を1-5年高めることが実現可能なのだ。仮に全世界の人々が皆この五原則を利用すれば、80億人の健康長寿期が1-5年高まることが可能となるだろう。と同時に、家庭における医療費を節約でき、国家の医療保険負担を軽減し、社会医薬資源を節約することも可能である。この5項目に渉る通俗平易な原理には、巨大な価値が含まれているのだ。
食事は人類文明の運動エネルギーであって、人類文明は食事から切り離せない。昨日も今日も明日もそうだ。食物分配と食物資源占有とは社会秩序の基礎である。「食が文明を孕む」原則には、食事と文明との関係が提示されている、すなわち「食事のトライアングル」原則では食事の完全性を認知することが強調され、「食事ファースト」の原則では多事が先んじることの危険性を述べ、「食事の2つのサイクル」原理では我々に不適切な食事行為を適宜修正するよう警告し、「食の秩序」原則では食事秩序が全ての秩序の基礎であることを明確にした。この5点の原則は全て人類文明と秩序に関するものであり、我々がこの5原則を完全に適用できれば、食物分配・食物資源の公開化・学科化が実現し、世界の食事紛争を大幅に減らし、80億人の利益を守る世界食事秩序を構築することができる。そして、食事新秩序は社会秩序全体を反復推進させ、人類文明に新たな階段を設けさせる。これまで、食事原則と文明との関係は過小評価されていたのである。
食学は食事を認知する知識体系として、食の客観的原則の発見をその使命としている。上述した食学十大原則は、食学科学体系の重要な内容であり、これらの原則は食学知識体系の需要を構築し、これらの原則により食事問題の需要解決が掌握されている。食学原則は物理学のような深奥さ、数学原理のような綿密さには及ばないものの、80億人の健康長寿と密接に関連しており、人類社会の持続可能な発展と密接に関連している。この点からみても、食学原則の社会的価値はその他の科学原則と比較しても、少しも遜色ない。
人類は、食事という問題において四大共通認識を持っている。すなわち「誰もが食を必要とし、日々食を求め、食により長寿を求め、食はみな相続人(子孫)を求めている」ということだ。生存という角度からみると、どの人もみな更なる健康長寿を熱望している。人類の文明発展からみると、人類社会には衝突が頻発していて、多様性のある世界化への道のりには障碍が横たわっており、人類の持続可能な発展も脅威を受けているところだ。これらの問題に直面し、人類生存に必需であり、人類文明を構成するための基礎的な食事原則を提示し、人類の食物獲得問題・摂食者の健康問題・社会の秩序問題を解決するために、本稿では万全な理論ツールを提供した。それはすなわち、人類の食事原則、人類の食事共通認識への励起、人類の食事問題の解決、これらの提示である。
21世紀に突入し、現代科学の分化と統合とが同時並行している。しかしながら、客観世界の認知はまだ脆弱である、というのも科と科との間にはまだ空白・盲点が存在している。それゆえに、分科が客観世界を認知することも、人類認知の局限的表現にとどまっていると言わざるを得ない。分科認知は人類が客観世界を認知する終着点ではないが、人類が客観世界を認知することは必然的過程である。人類は客観世界の認知に対してまだ多くの盲点があり、人類が認知する客観世界の道路にはいまだに凸凹がある状態なのだ。人類が客観原理を提示する能力には限りがあるものの、ずっと全面認知である客観世界に歩みを近づけている。客観世界はそこにあるのだが、人類がそれを分かっているか否か、それは客観世界自体とは関係のない事だが、人類だけがそれに関係があり、人類の生存と関係を持ち、人類生存の質量とも関係し、人類の持続可能な発展とも関係している。人類が提示する客観的原理とは何のためだろうか?それは人類がこの客観世界の中でより良い生活をずっと続けるためであって、人類滅亡を企んでいるのではない。この初心を忘れてはならないのだ。今日、人類内部に存在する無秩序な競争によって、多くの科学原則が悪用され、非理性的利用がなされ、科学技術制御の喪失は、すでに人類生存における重大な脅威となっている。
食物が生命を決定し、その生命は至高無上なものである。食物は生命創造を支える全ての価値であり、食物の価値とは全ての価値の基本である。体の食物欲求に耳を傾けること、健康長寿な生命はまず食からである。
食事は文明を育み、文明は四方へ光を放つ。食事は文明構築において全ての秩序を支え、食事秩序は全ての基礎を作る。不適当な食事行為を矯正すれば、文明の持続可能が実現する。
食学原則はあなたや私を変え、食学原則は世界を変える。

注(参考文献)  
1、劉廣偉『食学』(第二版)[M].北京:線装書局、2021:2-5
2、劉廣偉『食学導論-食事における客観規律の自主知識体系構築についての提示』「J」.山西農業大学学報(社会科学版)2023、22(1):112-125
3、GB/T 13745₋2009、中華人民共和国国家標準科目コードおよびコード。北京:中国規格出版 社、2009年
4、Newtonlsaac.Mathematical principles of natural philosophy[M].London:1814.
5、Playfair J.Elements of Geometry:Containing the First Six Books of Euclid,with a Supplement on the Quadrature of the Circle and the Geometry of Solids[M].London:1814
6、trade off(トレードオフ)とは、何かを達成するためには何かを犠牲にしなければならない 関係のこと。
7、ハインラインのSF小説『月は無慈悲な夜の女王』(1966)に出てくる格言There an’t no
such thing as a free lunch.に由来する。昔は酒場で「飲みにきた客には昼食を無料で出す」という宣伝が行なわれたが、実際には「無料」の代金は酒代に含まれていたため、「無料の昼食」などというものは存在しない、という意味。(池間注)
8、N・格里高利・曼毘『経済学十大原理』[J].中国集体経済,2000(6),26₋32
9、国連、我々の世界を変えよう:2030 年までの持続可能発展議程[EB/OL]. (2015.10.21)[2022.11.15].https://
documents-dds-ny.un.org/doc/UNDOC/GEN/N15/291/88/PDF/N1529188.pdf?OpenElement.
10、国連食糧農業機関、世界食糧危機報告書、2021[EB/OL]。2022₋5₋5[2022-11-15].https://docs.wfp.org/api/documents/ WFP-0000127343/download/?__ga=2.254941448.1079295008.1675652031-1866122711.1674976123